山形県  
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Prunus avium
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Carthamus tinctorius
 
森を作った人・守った人    
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  本間光丘      
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  阿部清右衛門      
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  尾形庄蔵
阿部永作
佐藤太郎右衛門

     
砂の上にも30年?
最初の馬鹿がいないと植林は続かないのではと思いつつ
佐藤藤左衛門と藤蔵(親子です)
酒田市から遊佐町までの海岸を植林し、庄内平野を穀倉地帯にした親子。
庄内藩は製塩のために燃料として海岸のマツを使いました。海岸のマツ林を使い果たしたため、穀倉地であった平野が荒れてしまいました。砂が舞い、養分が風で飛ばされるということで。

庄内藩は、荒れてしまった平野を穀倉地帯とするため、「植え付け役」という部署を設け、植林を行ってきましたが失敗の連続が続いていました。

1746年に庄内の造り酒屋の佐藤藤左衛門と藤蔵親子は、それまでの儲けを植林につぎ込み、試行錯誤の上、30年という時間をかけて植林を行った親子なんです。

特に、息子の藤蔵は、家業を弟に譲り、寝食を砂丘に小屋を建てて、クロマツの植林に精を出しました。はじめに、ネムノキを植え、その根の張ったところにクロマツを植えるという方法で、次々と防風林を作り、農地を保護し、庄内平野を豊かにしていきました。

成功するのを見て、地域の農民も参加しましたが、彼が植林を初めてから30年後のことだったそうです。やはり、植林という事業に地域住民が参加(自発的に)するには時間がかかるという良い事例なんでしょうね!

今、国内外で植林を行っている人やグループがたくさんありますが、砂の上にも30年というくらい長い目で見ているのかなあと思ったりしますがいかがなモノなんでしょうか。まあ、国際援助の世界では、3年で、5年で木のないところにプロジェクトをして成果を求めます。農業じゃないんだから、無理な話と思うのですが、理解出来ない人が多いのも事実です。

小学校で、このような話を習っていれば、理解出来るのでしょうけどね。


遊佐町
http://130.34.143.110/sub7/title.htm
 山紫水明の地 古来人材多し
 http://130.34.143.110/sub7/jnzamoku.htm

 
本間光丘
宝暦8年(1758年)から藩から許可を得て、私財600両を献納して、酒田湊の西浜に砂防植林を行った
 
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」といわれた日本一の大地主で、「徳は得なり」の哲学のもと砂防林造成を行ったのです。

まずは、土嚢ではなく、砂嚢を砂地に置きます。それを積み重ねて、山にします。山になることで、砂の移動を止めるのです。この砂嚢をおいていく人夫ですが、基本、失業者です。冬の酒田は、北前船が動かないため、港の労働者は、何もすることが出来ません。そんな、人たちのために仕事を作りました。砂嚢に必要な藁は、米所の庄内平野ですから、いくらでもあります。作るのは農民ですので、臨時収入になります。砂との戦いですから、1年きりと言うことは無く、安定収入になっていきます。ワーキングシェアを行いながら、地元にお金を落としていくのです。

これこそ、本当のボランティアではないでしょうか。日本にはボランティアが発生しにくいという話がありますが、財力と、人格さえあれば、出来るということなんでしょうね。口の悪い本には、自分のもらった畑を砂から守るために植林したと書かれていましたが、それでも自分だけでなくそれ以外の農地を守ったんですから




酒田市
http://www.city.sakata.yamagata.jp/index.html
国土交通省 山形河川国道事務所
http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/
 季刊誌 U-zen
 http://www.ym-mlit.go.jp/~test/u-zen/020/yumeno01.html
上杉鷹山

富樫兼治郎


阿部清右衛門
庄内海岸林を作った一人。
月光川河口にある吹浦港の築港と港を護るために砂対策として周辺の植林した人で、天保15年(1844年)に没しました。

吹浦の港は、昔から貿易の中継港として機能していたが、砂対策ができていなかったので、砂で埋まる羽目になります。鳥海山の麓で、庄内平野の北端に位置しますが、塩田開発等で元々あった海岸林が無くなり、多分新田開発で山も荒れて、大量の砂が飛んでくることになったのでしょう。

最初にネムノキ(Albizia julibrissin)を植えて砂丘の固定。その後クロマツを植林。クロマツは、松林から一生懸命、野生の苗を集めたそうです。

元々は、文政6年(1823年)から8年間、自腹で港を整備したんです。港を整備する際に、利用者間で意見対立があって受益者負担というわけにはいかなかったのです。仕方なく自腹ということに。そして、港を護るために植林。文政9年(1826年)開始のようです。植林地は、渋ヶ森という場所で、今でも、この松林は清右衛門爺山(せんじややま)と呼ばれています。1063人の人夫と188貫443文がかかった費用です。


曽根原六蔵
碇屋という屋号を持つ酒屋の人。母親は、佐藤藤蔵の妹です。安永9年(1780年)に、植林を藤崎村の北端から吹浦と呼ばれる場所までの3.5キロを植林するのです。
植林のきっかけは、安永5年(1776年)に妻を亡くし、安永7年(1778年)に母親を亡くすのです。退路を断たれたというか、植林しなければという使命からか、移住して植林を開始。
14との農民を引き連れ、植林した結果、享和2年(1802年)に、菅野村(遊佐町菅里菅野)という名前を貰います。ついでに藩主酒井公から、苗字帯刀をいただくのです。8年後の文化7年(1810年)に、68歳で幕を閉じるのですが、植栽本数は、190万9240本とのこと。

その後、子孫6代にわたり植林を続けたそうです。

高橋作左衛門
シーボルト事件の天文方高橋作左衛門とは、別人です。
佐藤藤蔵父子の植林より前に、西浜植林を実施した人。
酒田の大商人ということで、橋家は、代々作左衛門か、儀兵衛と名乗っていたとのこと。元々は、源氏の流れをくむ武士だったそうですが、農業、そして商人に。
最初の海岸林植林は、2代目だそうで、寛永18年(1641年)には、行ったとのこと。

海岸を植林し、砂が抑えられれば、農業が出来ます。飛砂を防ぐことが重要だからです。砂地に森を作り、海岸林の壁が出来ます。そして、内陸側の木々は切り倒して、農地にします。開拓する権利を得てから行うので、徐々に所有する田畑が増えていきます。そして、金持ちになっていくのですが、派手に使うこと無く、地域の発展に使っていったのです。



富田角右衛門

尾形庄蔵

阿部永作
三元豚の平田牧場で有名な平田地区(北俣村)出身。今は、酒田市です。
安政元年(1854年)に生まれ、昭和2年(1927年)に没します。生まれた場所は、庄内平野東縁断層帯に接する場所で、崩れやすいと言うことで、治山緑化、治山事業に命を捧げます。草刈り場であった箇所に木を植え、土砂流亡を防ぎます。麓は田んぼですから、田に土砂が入らないことが重要でした。

愛澤神社付近にある草原に杉を植えます。しかし、他の地元住民の反対=雪深い場所での造林の難しさ=やっても失敗でしょという声がある中、信念を貫くのです。
基本姿勢は、何も無い貧しい村だから、せめて基本財源だけでも確保しようと。木が育てば、売ったお金で村の整備が出来ます。

明治初期に作られた小学校が古くなり、建て替えのための費用集めに苦労したからだとか。これが明治20年(1887年)のことです。

この2年後の明治22年(1889年)に、12町4反=12ヘクタールに、6万本余りを植え付けます。明治37年には、学校林になります。

さらに、相沢川を挟んだ反対側の大師石の国有林8町(7ha)を払い下げて貰い、杉を10万本植栽。さらに、国有地が払い下げになると聞いて、270町(240ha)を村人からお金を集めて、20万本を超える杉を植えたのです。

明治30年から32年にかけて、明治の大水害の時期にも有るのですが、奥山の薪炭狙いの乱伐で、相沢川が氾濫します。このため、15年の禁伐期を設けます。明日の今年か考えない村人の多い中、説得に力を注ぐのですが、並大抵な事では無かったというのは、容易に想像できます。

でも、しなければ、ますます貧しくなるのを理解していたからです。

もちろん、木を植えても収穫には時間がかかります。このため、明治22年(1889年)に、桑の苗18000本を、村人に配ります。その後、村内に、共同製糸場を作り、養蚕業を盛んにします。この他、産馬にも力を入れます。村長も20年務めるなど、地元のために尽くした人だったからこそ、出来た話かもしれません。


佐藤太郎右衛門