静岡県  
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Osmanthus fragrans
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Rhododendron aureum
 
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海岸林造成の歴史
静岡県だけではないと思いますが、特に静岡県を代表とする太平洋沿岸は、津波が一つのキーワードになるのではないでしょうか。
日本海側は、シベリアからの北風が毎年吹くので、飛砂に対する攻防の歴史に対し、数十年に一度の地震対策ではと思ってしまいます。

太平洋側では最大の砂丘を持っている県なんです。年表のように天正年間からのうち開墾や住環境保全を主な目的に海岸部にすむ住民はクロマツを植えました。
同時に潮除堤を津波・高潮対策として作りました。

本格的な砂丘への植林は、明治時代に入ってから。その目的は、食糧増産のための農地保全。そして昭和にはいると、昭和7年から19年にかけて国の定めた砂地造林計画に従って、県営工事として海岸林造成。ただし、戦況の悪化で昭和18年に中止。海岸に木があると敵の上陸を助ける(障害物になるから)ということだったのかは分かりませんが、資金不足と言うこともあるかと思います。

浜岡町から大須賀町にかけての海岸は昭和12年に陸軍の射爆場として利用。せっかくの植林もパァに。

戦後、国の支援、県の支援などによって造林が再開され今に至っています。そして、農地だけでなく、居住地や工業団地が進出するようになりました。

ちなみに、植栽樹種は、クロマツ。そしてその肥料木として、クロノキ類、ハギ類、アキグミ、ネムノキが一緒に植えられます。ヘクタールあたり5000本、もしくは1万本という密植で風、乾燥から苗木を守る方法がとられています。でもこれは砂に埋まりやすい危険を引き替えにしての行為です。そして、今は静岡産の間伐材で防風柵をつくって砂地造林を始めています。





和暦 西暦 内容
天正年間 1573-1591 武田・北条の合戦により刈り払われた千本松原のクロマツを増誉長円により植林
天正年間 1573-1591 遠州灘海岸の農民による海岸林の造成が始まる
慶安2年 1649 浜松市五島の開拓始まる
宝永4年 1707 宝永地震により下田、新居に津波の被害が発生
安政元年 1845 安政東海地震によって静岡県の沿岸一体が津波の被害を受ける
安政年間 1845-1860 県内各地で潮除堤が築かれ、クロマツの植栽が始まる
慶応2年 1866 浜岡町において、季節風を利用した人工砂丘の造成が開始される
明治10年代 1878〜 海岸砂防のために、幸浦村ほか、5か村で海岸改良組合が結成された

 
三保の松原   
遠州灘
陸地側
海側
植栽直後を守る防風垣
砂地に黒松

阿波々神社
http://www10.plala.or.jp/awawajinjya/


灯台が森
GPSやレーダーがなかった頃の沿岸航行の安全確認は、山だし(山立て)という方法。
漁場や航行の安全のため、自分の船の位置と2カ所の山ないし樹木や岩を目印にしたんです。

ここ静岡県の遠州灘では、掛川市にある栗ヶ岳(標高532m)を灯台代わりに、標識にしていたんです。

明治31年には航行目標保安林として指定されたんだそうです。

ちなみに、阿波々神社の鎮守の杜です。
神様が見守るので、航行の目標となったのか、その逆かは不明ですけど。


静岡茶はスギの箱に
静岡茶の生みの親は、するが国栃沢(今の静岡市郊外)生まれの聖一国師が、宋から苗を持って戻ったのが始まりとか。しかし、生産量日本一になるのは、明治維新で職を失った武士が、牧ノ原で血の汗を流した涙の結晶の成果なんです。

茶箱は、普通ヒノキを使うんですが、静岡茶はスギで出来た箱。理由は、静岡スギという地元のスギが豊富にあったこと。ヒノキの場合、50年生以上でないと割れ(爆ぜ)が起きるが、スギは30年生以上で問題ないからだったとか。

ちなみに、スギ板を貼り合わせて作る箱は、継ぎ目に和紙を貼りめぐり、内部はトタン張り。これで、防虫・防湿効果。さらに、お茶のカテキンやタンニンが木に染み込んでさらなる防虫・防湿効果を高めたんだそうです。

ちなみに、宇治茶の茶箱は、「山城櫃」と呼ばれています。






河津桜の原木:河津町田中の飯田勝美氏の家

河津桜
早春の風物詩といえば、伊豆河津町の河津桜(Prunus lannesiana Wils. cv. Kawazu-zakura)。下田は、みなみの桜ともいうオオシマザクラとカンヒザクラの種間雑種といわれ、1955年頃に見つけられた栽培品種。

飯田勝美氏が、昭和30年(1955年)頃にの冬の咲いている桜を見つけて植えてみて(左の写真)、昭和41年に開花。そして1ヶ月ほど咲き続けたのです。ここから河津桜が始まったのかもしれません。その2年後には、伊東市の勝又光也氏によって増殖され、河津川沿いがピンク色に染まっていったのです。

一説によれば、河津桜の経済効果は300億円。そのうち、地元河津町の経済効果は5%に満たないんだそうです。



伊豆河津桜まつり情報局
http://www.kawazuzakura.net/

杉の巨木in島田市
島田市にある古刹で、千葉山智満寺の杉の巨木。
宝亀2年(771年)開創の天台宗の古刹。開山は広智。光仁天皇より智満寺の勅額を得て勅願寺となった。源頼朝が源氏再興を祈願して果たし、平家である千葉介常胤に命じて、伽藍を造営させたという。
背後に496mの千葉山があり、山内に10本の大杉が散在していた。今は、9本。


@大杉:樹高 40m:目通り幹囲 9.5m
A達磨杉:樹高 30m:目通り幹囲 7.0m:根が太く、達磨さんに似ているから
B開山杉(かいさんすぎ):伝承1200年以上で、智満寺開山の広智が植栽したらしい
C盛相杉(もっそうすぎ):樹高 40m:目通り幹囲 7.8m:盛相という名の行者が植栽
D一本杉:樹高 45m:目通り幹囲 8.5m:一番ののっぽの木
E経師杉(つねもろすぎ):樹高 36m:目通り幹囲 7.3m:千葉太郎経師が植えた
F常胤杉(つねたねすぎ):樹高 30m:目通り幹囲 7.2m:千葉常胤(1118〜1201)が植栽で推定樹齢800年
G雷杉:樹高 36m:目通り幹囲 8.5m:樹形が、雷神の怒りの形相に似るから
H頼朝杉:樹高 36m:目通り幹囲 9.7m:源頼朝が植栽したらしい。推定樹齢800年
I子持杉:台風で倒壊したため現存せず




智満寺

森の中の巨木

大杉
エノキin静岡
エノキ(Celtis sinensis var. japonica)は、屋敷に植えると早く大木になって囲いになるので良い。
ただし、材木には使えない。春には葉を食べ、飢饉の時には甘皮を剥いで食べる。
屋敷の北西に植えると金持ちになるのは嘘。

ヤナギin静岡
薬効成分があり、細工物にも使われる柳ですが、場所によっていろいろな伝承があります。

◎屋敷内に柳の木を、植えるのは縁起が悪いと忌み嫌っている。(場所不明)






木の下に人が来るから來宮神社
 ご神木である楠(Cinnamomum camphora)は、樹齢2000年以上。このため、元々は木宮明神だったのですが、ご神木の下に人が集まると言うことで、江戸末期に、來宮神社へと字が変更してしまうのです。



和銅三年(710年)六月十五日に熱海の海へ漁夫が網をおろしていたところ、お木像らしい物が之に入ったので不思議に思っていたところ、ふとそこに童子が現れ「我は五十猛命である。」
 此の地に波の音の聞こへない七体の楠の洞があるからそこへ私をまつれ、しからば村人は勿論当地へ入り来る者も守護するからと云うと同時に童子は地に伏してしまったので、村人一同で探し当てた所が、今の此の地であり、毎年六月十五日(新暦の七月十五日)になると海岸へ出て当時を偲ぶお祭りを行う。(七月の例大祭。こがし祭)
 当時海辺で神に麦こがしをお供へした故事にならい今でも古くから引き続いてこれを神に供えて、尚、国の天然記念物に指定されている此の大楠は、当社の御神木(ヒモロ木)であって、太古は此の楠へ神の霊をお招きして神をまつっていました。いわゆるヒモロ木神社である事は故宮地直一、加藤玄智両博士の著書にも述べられています。

http://www.kinomiya.or.jp/top/gosaijin.html

 国の天然記念物である大楠(樹高26m、幹周23.9m)の周りを1周すると、女性の場合は、1年寿命が延びて美しくなるとのこと。

 この神社は、時代の流れに乗れなかった熱海温泉の巻き添えを食らって参拝者の減少を迎えます。温泉客は、平成23年(2011年)頃に、ピーク時の半分になってしまうのです。
このどん底期に、起死回生として、境内に竹(3000本)・笹(1万本)を植えるのです。竹・笹はお祓いという意味もあり、悪い物を払って参拝と言うことに。心安らかに参拝できるように工夫したんです。

 また、コーヒーの飲める喫茶店というよりカフェも作りました。コーヒー豆と節分の豆、「魔滅(まめ)」ということで、無病息災になる飲み物を提供したんです。

 さらに、女性やカップルの楽しむ夜の場所を提供するため、大楠のライトアップもしているんです。

 令和元年(2019年)で改革するときの7倍の参拝者72万人が訪れたそうです。


沼津垣
駿河湾に面した沼津市の海岸近くは、西風が強いため、箱根山にあるメダケを使って竹垣を作っていました。メダケのことを箱根竹と地元では呼んでいます。

直径1cm程の細かいメダケを、十数本ずつ束ねて杉綾模様で編んでいきます。ヘリンボーンとも呼ばれ、ニシンの骨とも呼ばれ、地区によっては、杉綾ではなく、綾杉と呼ぶ場合もあります。

ちなみに、地名の着いている垣根は、沼津垣と割った竹の裏側を見せる大津垣だけとのこと。

沼津市若山牧水記念館に行けば、入り口で見れるとのこと。





杉綾模様





真竹の2節を残し,一重の切れ込みを入れた簡潔な作であり,以後,竹花入の流行を生む最初期の古典としてあまりにも名高い。園城寺の銘は子息の千少庵が名付けたもので,表面の干割れを園城寺の破れ鐘にちなんだもの。(東京国立博物館蔵)
韮山竹
韮山町にあるマダケを、韮山竹と呼びます。
何故なら、利休がここのマダケで花入れを作ったから。

天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めに同行した千利休が、3本の竹花入れを作ったのですが、銘「園城寺」(東京国立博物館蔵)で、その名が知られることになったのです。

韮山竹は江川家の邸内に自生する真竹で、数十本に一本、根元にひび割れ(雪割れ)が入ったものがあり、このひび割れが竹花入れの「景色」として珍重されました。江川家は、元々は、北条早雲に仕え、その後、家康に仕えます。伊豆が幕府直轄地になったことで、代官として統治しました。