島根県  
  県木:クロマツ
Pinus thunbergii
県花:ボタン
Paeonia saffruticosa
 
森を作った人・守った人    
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  井上恵介       
  大梶七兵衛朝泰      
  横田五左衛門美啓      
  間島作庵      
  伊藤蔵重      
   
井上恵介
 享保6年(1721年)生まれ。出雲市から大社町にかけての高浜砂丘を、植林するために必要な資金を作った人です。そして植林もした人です。
 植林の資金がないなら、富くじ(今の宝くじ)を、導入して資金を集め、植林に十分な資金を用意し、36才(1756年頃)の時に難工事に立ち向かい、植林を行いました。

 実際には、富くじの許可をもらうために、植林が可能であるとの証明を行うため、水辺に生えていて使い道のない藻粕を苗木の根元に埋めて植林を行うという方法で高浜砂丘での植林方法を開発しました。

 富くじが許可されるまでの間、井上恵介は、先祖代々の宝物を次々と売り払い、身を削って5haの植林を行い、その後、植林の目処がついた藩は、富くじを許可し、22年後には、マツの緑に覆われるようになり、出雲平野の穀倉地帯を守るようになりました。


 
大梶七兵衛朝泰
 寛文10年(1670年)、松江藩の命により、出雲平野西部の、荒木浜に黒松を植林し、防風防砂林を作った人。このとき、8列に平行に植えたので、「八通り防風林、八通り海岸林」と呼ばれ、「御立て山」に指定されます。植林の条件は落ち葉の利用のみが許されたそうです。

 元々は、津幡の家老の家だったそうですが、関ヶ原で徳川側に逆らったとかで、下野して出雲に移り住んだそうです。
元和7年(1621年)に出雲国神門郡古志村生まれ。本名は、林という説もあります。公的には、梶を名乗り、大梶になったのは、明治時代になってからだとか。元禄2年(1689年)5月25日に、69才で永眠します。

 荒木浜は藩も開拓を断念した荒れた海岸だったそうで、防風林を作る際、4尺のソダ垣をつくって飛砂をとめる堆砂垣を作ります。さらにその上に堆砂垣を築いて、砂を留めました。その後ろに苗を植えたそうです。砂山の後ろ側には、浜荻(Phragmites communis )やアキグミ(Elaeagnus umbellata)のこと秋茄子(あさどり)を植えて、砂を固定します。

 飛砂が止まってから黒松を植えるのですが、なかなか活着(根付く)しないため、苗の根に4寸角の粘土をつけるなどの工夫をして植林をしたんです。
 この結果、防風林が出来、農業が出来るようになったんですけど、そこで農業をしようというチャレンジャーがおらず、七兵衛自身が移り住んだとか。
 その後押しを藩がして、資金の融資、建設資材の提供、市場の開設などのサポートがありました。
 増える人口をいかにして養うか頭を抱えた藩にとっても有り難い話だったんでしょう。

さらに農業用水の開削に着手し、斐伊川から水を引き、高瀬川(運が)を完成させました。
その後も私財を投じて開削事業を進め、神戸川を神西湖に引く十間川も完成させ、一帯は広大な水田が広がる肥沃な土地とし、松江藩の財政を支え、今に至っています。


横田五左衛門美啓
 江川の水が尽きても沖田屋の金は尽きないと言われた大富豪、沖田屋横田五左衛門美啓です、明和2年(1745年)に没した商人です。いろいろな事業に手を出し、大成功、そのお金でもって開墾をしたんです。

 タダの金持ちではないんです。ほんまもんの金持ち

 享保の大飢饉の際には食べ物を無償で提供したり、失業者を救うために事業を興したりしました。事業といえば開墾(貧困は食糧難の元)です。浜辺を農地にということです。

 とはいっても敵はやはり風
 日本海側から吹き付ける風で砂が舞い農地が埋まる。そんなことの繰り返し

 ということで、防風林を作ることが大事ということで、クロマツを植えて農地を守りました。

 そのクロマツは五左衛門の松並木として現存しているそうです。江津駅より海の方にあるとのこと。その偉業を忘れないために、江津市の木クロマツに指定されています。


江津市のホームページ
http://www.city.gotsu.shimane.jp/index.html


間島作庵
 大梶七兵衛と同じ頃に神西村に住み着いて、蛇島や原の砂地に植林をした人。
 元々は、神西湖は、海に流れない湖で、しょっちゅう、洪水があったそうです。洪水というより浸水被害というのが適切かも。そこで、海に繋がる流路を大梶七兵衛とともに作ります。これが差海川開削です。

 出身は九州か山口の人で、出雲大社に参詣したときに、腰を据えてしまった?そうです。眼科医だったとか。名前も、真島、馬島、馬庭等の別名もあったそうです。

 神西湖の洪水対策⇒洪水終了で農地開拓⇒飛砂で農業出来ず⇒防風林を作るの流れだったのかもしれません。

 昭和54年(1979年)、『間島作庵翁碑』が国道431号線沿いに、作られました。







神西コミュニティセンター
http://www.izumo.ne.jp/~jinzai-pc/

間島作庵翁碑
http://www.izumo.ne.jp/~jinzai-pc/map/html/no22.html


伊藤蔵重


岩國哲人
出雲市長として、コンクリートの中学校計画を破棄し、木造建築の校舎にした人。メリル・リンチの元上席副社長から出雲市長になったときの最初の仕事だそうです。

木の文化を大切(地元の林業の振興)にということで、古代木造建築の出雲大社に負けない出雲ドームを作るほか、樹木医制度のきっかけとなる出雲市樹医制度を作ります。

また、地元の樹木について知ってもらうために、小学校5,6年生に樹木ノートを配るなど、北海道の木育より早い段階から人と木を繋ぐことに力を注いだ人です。

個人的には、羽田孜にくっついて民進党に行ったことが残念でしたが。