埼玉県  
  県木:ケヤキ
Zelkova serrata
県花:サクラソウ
Primula sieboldii
 
森を作った人・守った人    
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  柳沢吉保       
  安井政章      
  森喜作
熊沢蕃山
     
 

テレビドラマの悪役
柳沢吉保
この人は、テレビ水戸黄門、赤穂浪士の話の中では悪役です。

評価はあまりされていないのでしょう。しかし、関越自動車道沿いにある三芳町や川越の雑木林は、彼のおかげなのです。それを相続税の為なのか、目先の金儲 けの為なのか、土地が売られ、木々が次々と切られ、都民のゴミを処分する産廃になったり、嘆かわしいことです。
元禄の頃、平和な世の中になって、人口が増え、その対策として新田開発があちこちで行われました。
その結果、耕地面積の増加によって自然災害が増え、逆に収穫量を減らすという結果に陥ったのです。武蔵野の大地を風が舞い、表土をとばし、農業ができないような土地になったのです。

実際に働いた人
曽根権太夫と家臣たちです。



関連のHPこちらです。

三芳町立歴史民俗資料館
  
三富新田について詳しく書-かれています。


 
安井政章
川越藩主松平大和守斉典の家臣で、藩の郡奉行を勤めた人。

天明7年(1787年)に生まれ、財政赤字の川越藩で、再建させるためいろいろ施策をしたんです。商人と一緒になって緊縮、倹約をするかと思うと、行き詰まりを感じ商業資本ではなく、農村を中心とした開発を行いました。

養蚕をはじめ、絹織物などの産業を興し、農村の貧窮な生活の改善に努める一方、荒れた水田を回復させるため治水にも手を出します。

比企郡川島町の堤防が決壊した際、一大土木事業を行い、弘化2年(1845年)に「鳥羽井堤」を作り、堤にサクラ
低いところにヤナギを植え、洪水防止に貢献しました。

この他にも、前橋の領内において、赤城山麓にマツを植え、農地を暴風から守るといった功績があります。

飢饉の際には、倉をあけたりして領民を救ったという功績があります。

嘉永6年(1853年)6月に病のため、67年間の生涯を閉じました。広末町にある栄林寺にお墓があります。


森喜作

シイタケ栽培者を救った研究者。
種ゴマの発明者

熊沢蕃山
 明暦元年(1655年)に藩主池田光政に治山治水の要を進言し、岡山周辺の禿げ山に藩の費用で植林や砂防工事を行った。翌年には、藩内にマツを植えるよう指導します。

 貞享3年(1686年)には今までの経験を書にまとめ、「集義外書」という山林の荒廃の原因は、製塩・製陶の増加、仏教隆盛による建築ラッシュ。加えて、民衆の経済的困窮と分析し、翌年に「大学或問」を書き上げ、山林の重要性は、経済的価値ではなく治山治水といった生活環境の保険として必要であると世に訴えた思想家です。

 この人は荒廃した山を緑にするために、鳥を使ったことがあります。鳥の糞には木の種が含まれているので、種をまいてくれる非常に便利な道具?ということで雑穀を地面にまいて、鳥を集めたんです。
 しかし、鳥は雑穀を食べただけで、糞も落とさず飛んでいったので失敗

 その反省を活かし、雑穀の上に藁を敷いて、鳥が餌を探す手間をかけさせるようにして、その場に糞を落とすようにしたんです。
この方法は、この間コスタリカで、牧場跡地を緑に変えるプロジェクトの紹介が、テレビで放映されていたのですが、そこで、そのプロジェクトの責任者の博士は、同じように鳥を用いる方法で緑化しようとしていました。種をまくのではなく、果樹をつかって、木になる果物に釣られて鳥を集めるという方法です。結構、その博士が自慢していたのには笑いました。だって、同じ事を300年以上も昔に熊沢蕃山は実践していたから昔の日本がひどかったのか、同じ状況では人間の発想は同じなのか、どうなんでしょうかね。

 なお、陽明学を基本にしていたため、江戸幕府の朱子学とは、相反する学問です。このため、幕府に睨まれ、明暦3年(1657年)に岡山藩を去ります。その後、40歳になった万治元年(1658年)京都に移ります。そこで、私塾を開くのです。有名人ですから、色々な人が来ました。中には、豊後国岡藩主中川久清から土木工事の技術指導にと、竹田に呼ばれます。万治3年(1660年)のことです。
 京都で活躍するも、幕府からは目をつけられているため、寛文7年(1667年)には大和国吉野山、続いて、山城国鹿背山に移り住みます。しかし、幕府の監視網からは逃れることが出来ず、51歳の寛文9年(1669年)に、神戸市西区にある太山寺に幽閉されます。播磨国明石藩主松平信之の預かりとなったのです。
 この時、一生懸命、これまでの成果をまとめました。寛文12年(1672年)に、「集義和書」、延宝7年(1679年)に、「集義外書」を刊行します。
 松平信之の大和郡山藩への転封に伴い、大和国矢田山に移ります。そして、幕府に睨まれているにもかかわらず、天和3年(1683年)には、大老堀田正俊の招聘が会ったそうです。結果は、辞退するのです。
 貞享4年(1687年)に「大学或問」が徳川幕府のやり方を非難したとして、松平信之の嫡子である下総国古河藩主松平忠之の下に預けられます。鎖国の無駄、金食い虫の参勤交代などが癪に障ったようです。
 古河藩に幽閉されるのですが、土木工事の技術者として、藩内を治水治山技術を教えていたとのこと。湧き水を一度集め、暖めてから田畑に配分する「蕃山溜」という溜池が茨城県古河市関戸に残っています。また、埼玉県加須市柏戸の出流神社(いずる)に、蕃山堤があります。渡良瀬川と思川が合流する付近は、洪水多発地であり、溢れた水が村々を襲わないように、湿地帯に誘導するために低い堤防を設置しました。
 元禄4年(1691年)に73歳で死去。藩主松平忠之公に手厚く鮭延寺に葬られました。