新潟県  
  県木:ユキツバキ
Camellia japonica
県花:チューリップ
Tulipa gesneriana
 
森を作った人・守った人    
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  水野村と下流の村人
覚左衛門
川村修就

     
            
水野村と下流の村人
天明4年(1784年)に越後高田藩の領内にある水野村
ここで、入会地の森で新規に炭焼きを願い出たところ、下流に位置する24の村が「水元山」が伐採されると融雪が早くなって、農業用水が必要なときに足りなくなる可能性に気付き、下流の村人達は一致団結し、炭焼きおよびこれ以上の開墾をやめてちょうだいと懇願。

そのかわりに、一時金と毎年米を提供するということで山の利用を諦めてもらったんです。

 
川村清兵衛
あまり資料がないのですが、1617年から1911年にかけて植林した新潟砂丘の先駆者。
藩士で、植林の際、黒松、ネムノキ、グミを採用


覚左衛門
村上の砂丘を1684年から1710年にかけて植林
藩のお偉いさんで、大年寄りだった人

川村修就(ながたか)
元々長岡藩が持っていた新潟港を、天保14年(1843年)に天領にするのですが、その時の初代奉行です。来たるべき開国に向けた動き?かどうかは分かりませんが、黒船来航後の、日米修好通商条約で開港五港の一つとなります。
日本海側の軍事拠点の強化の一環で天領にしたとも言われています。

と言うことで、本職は砲術家であり、そのための砲台を作ります。外から来る敵を迎え撃つ準備だったのかもしれません。

新潟奉行としての在職期間は、天保14年(1843年)から(1852年)ですが、弘化元年(1844年)から嘉永2年(1849年)までの6年間に、新潟砂丘のある寄居浜に、26,000本の植林を行ったのです。

もちろん、それ以前に、元々の持ち主であった長岡藩が植林しています。元和3年(1617年)からの植林という事を踏まえると、梃子入れした人とも言えます。西海岸公園が今に引き継いでいます。

寛政7年11月13日(1795年12月23日)生まれ、 明治11年(1878年)4月8日)没

幼名は釜五郎、通称は庄五郎・清兵衛です。新潟奉行の後は、堺奉行、長崎奉行と幕府を支える重鎮の一人でした。また、絵心があったため、新潟奉行時代に描いた風俗画が、幕末の新潟の様子を今に残していると言うことで有名です。