高知県  
  県木:ヤナセスギ
Cryptomeria japonica
県花:ヤマモモ
Myrica rubra
 
森を作った人・守った人    
杜(森)の話
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  堀内雍喜      
  野中兼山      
  宇田友四郎       
  細木鵞仙      
 

堀内雍喜
入野松原(大方町)を守った人
高知県の大方町にある立派な松原で、大正時代に防風保安林に指定された大切な機能を持っている森林です。

大東亜戦争末期、日本の敗北に伴う本土決戦に備え、敵の上陸を阻止するために陸軍(本土防衛軍)の伐採の要請(というより強制)を身を挺して伐採計画を拒み続けた林野庁中村営林署長さんです。

高知から中村に行く途中に見ることができる松林です。きっと、国賊呼ばわりされ、つらい目にあったと思います。

入野松原を作った人は、400年ほど前に長曽我部元親の家来たちだそうです。





入野松原です。




関連のHPはこちらです。

大方町のホームページ
 
有能な人はこうなるのが落ちなのかな?
野中兼山
(1615〜1663)
土佐藩が生んだ立派な家老、しかし、そのめざましい業績が出来の悪い家臣らに恨まれ、ねたまれ失脚させられる。失脚3ヶ月後にこの世を去るが、その一族も不幸な道をたどり、男系が途絶えるまで幽閉されるのです。

二代目藩主山内忠義につかえ、27年間、家老として辣腕を振るい、土佐藩の経済を盤石なものとしたんです。

時には、農民の格好をし、人々の声に耳を傾け、巷の要望を聞き歩いていた。土佐藩の地域振興のために、ミツバチを導入し、アサリをまいて魚介類を増やし、新田開発をし、そして、林業を興した人です。

天然の杉や檜を出していた土佐藩の将来を憂い、山に入り、本数を数え、50年で収穫できれば50区画にし、50年サイクルで回せばいいという、保続施業を 考案し、実行したのです。これぞ、持続可能な森林経営の走りでしょう。これは、「輪伐制」と呼ばれ、土佐藩の山林経営の根幹となったのです。

この人の業績は、これだけでなく、「土木神の化身」と呼ばれるほど、土木工事(新田開発)を行いました。

西武ライオンズのキャンプ地である春野の開発、仁淀川の八田堰、土佐山田の開発、等々。そして、江戸時代の漁港がいまだに残っている日本最初の堀込み港湾 「手結内港(貴重な歴史のある港です)」等、業績はたくさん残しており、今なお、高知の経済に寄与しています。
尚、彼が導入した養蜂は、100年後には、日本を代表するハチミツとして高く評価されたとか

魚付き林と漁獲量のアップ
幡多郡大月町の柏島は、潮の流れが速く、魚貝類が住み着かなかったが、ここに防波堤を作り突堤を作り、港をよくしました。突堤を作ったところ、潮の流れが止まり、魚が寄ってくるようになり、さらに山陰が魚付き林として機能し天然の良港になりました。
また、高知の海岸に接する森林の伐採を禁止した。
 







































 本山町のホームページ

宇田家
白鳳大地震と呼ばれる684年に起きた東海・東南海・南海連動型地震で発生した津波で壊滅状態になった赤岡の海岸に松を植林した旧家。

宇田さんの松原が、いつの間にか宇多の松原に。

宇多の松原は、物部川の河口から赤岡町を超え香我美町の岸本あたりまでの海岸林を指すのかも知れません。

承平4年(934年)には、潮害防備林として植林された記録があるそうです。


細木鵞仙
宇田さんが植えた宇多の松原も、経済発展盛んな江戸時代に、伐られたそうです。安永から天明年間(1772〜1788年)に、伐っちゃいました。塩田開発かなんかだったんでしょう。
せっかくの松も、燃料に

細木鵞仙は、土佐日記の作者、紀貫之の大ファン。土佐日記に書かれている「かくて宇多の松原を行き過ぐ。その松の數いくそばく、いく千歳経たりと知らず。元ごとに浪うち寄せ枝ごとに鶴ぞ飛び交ふ。」を再現するために、赤岡に住んで、松の苗数千本を自費調達したんです。弘化年間(1844〜1847年)にかけてです。