福井県    
  県木:マツ
Pinus spp.
県花:スイセン
Narcissus tazetta
 
森を作った人・守った人    
杜(森)の話
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  結城秀康       
  近衛中将隆澄      
  大道      
  
結城秀康
天正2年(1574年)に生まれ。
慶長12年4月8日(1607年6月2日に相当)に没。病名は梅毒だったとか。松平秀康、徳川秀康ともいいます。お万の方(側室)の子で、家康の次男とし て誕生。幼い時に豊臣秀吉の養子になり、その後結城晴朝の養子になる。30代のときに松平姓を名乗ると、数奇な運命を辿るんです。慶長9年(1601年) に福井藩に入封。目的は、外様大名の加賀100万石の前田藩を見張るためだったとか。

そして福井入りして始めたことは、国力の回復。立て直しだったんです。
一向一揆をはじめ戦国時代で荒廃した国土の回復に膨大な建築資材が使われることに。国土が回復すればするほど、家が建ち、景気が良くなればなるほど、福井藩の山が次々と禿げ山になっていったそうです。
植林分野では、慶長9年(1604年)に防風林目的でクロマツを海岸に植林。また山にも植林。クロマツを好んで植えたそうです。松平だけにマツ?

奈良時代の養老元年(717年)、越の大徳こと泰澄大師が開いた霊山である文珠山も例外ではなく禿げ山に。文殊山に植林を行ったこともあります。
文珠山は代表格。

戦争が終わり人同士の戦いが終われば、今度は自然災害との戦い。各地で洪水が多発。そのためだと思うんですけど、すぐに山方法度を定めて、山奉行を置いたのです。最初は1人、宝永2年(1705年)から2人に増員。
山方法度とは、林で焼畑をしてはいけないとか、家を建てる際の木の伐採は許可が必要とか、入会山の利用の規制とかです。
結城秀康自身は1607年に没しますが、福井藩は80年間にわたってマツの植林を継続。承応2年(1653年)に9ヵ条の「山方掟書」、延宝5年(1677年)には26ヵ条の「山方御条目」を制定したんです。
また、漆・桑・楮・茶を福井の四木といって大事にしたんです。


 
日本japan漆の産業の基礎を作った人
近衛中将隆澄
漆は、古代から日本で使われており、日本を代表する林産物です。
鯖江市周辺に住んでいた人
770年頃、漆掻きの技術を開発(?)し、漆の発展に貢献した人。このあと、今立地方は、漆掻き職人を全国に派遣し、一躍有名となるのだそうです。
ちなみに、「漆掻人」という鑑札をもって全国を廻ったとか


 
大道
三里浜を植林したお坊さん
明和5年(1768年)に敦賀の唯願寺の三男として誕生。1781年から1898年まで植林が続くのですが、その先駆者。マツとネムを植林したそうです。

いろいろ地域に貢献しており、鮎川より福井に通ずる海岸や山間部に、道路を開いたり、川に橋をかけて、交通の便の整備にも貢献しました。

ほんとう、今のお坊さんは何をしているのでしょうか