愛知県  
  県木:ハナノキ
Acer pycnanthum
県花:カキツバタ
Iris laevigata
 
森を作った人・守った人    
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  渡辺半蔵守、奥村理右衛門       
  山本源吉、古橋暉皃      
         
 
渡辺半蔵守、奥村理右衛門
矢作川の水害防備林を作った人。矢作川の水害防備林の設置は、江戸時代末期の頃といわれており、法珍ドブという遊水池を造り、そこに法珍堤という堤防を造り、その堤防の強化するために竹を栽培。この竹林は、水防林としての機能を果たすとともに、竹材の提供の場にもなっていた。

戦時中に、竹林を乱伐し、開墾したため、昭和28年の台風13号では、水害を受ける羽目に。堤防に竹林の無いところが決壊したとのこと。

矢作川の水防竹林の推移
所属町村 昭和10年 昭和28年
延長
(m)

(m)
面積
(ha)
延長 面積
高橋村 4000 10-150 11 3000 30-100 5
挙母市
(豊田市)
2500 20-100 6 1200 10-70 2



 
山本源吉、古橋暉皃
 明治時代に矢作川の水源林を作った人です。矢作川の流域は江戸時代末期の頃は、薪炭林や採草地(牛や馬の餌)として利用。採草地=山焼き=禿げ山です。
 降った雨は、そのまま流れるので、洪水の羽目になります。薪炭林も、落ち葉は肥料として田畑に抄き込むので、こちらも木はあるものの、土壌は剥き出し状態です。保水力の無い状態です。

 水源源として、水を蓄えるには、落ち葉があり、スポンジとして水を蓄える機能です。そのためには、収奪しない森林と言うことで、スギやヒノキを植えました。少なくとも、伐採するまで長い期間を必要とするため、また売ればお金になるため、森を作っていったのです。

 山本源吉は、額田町(現岡崎市)で、古橋暉皃は、源六郎暉皃とも言いますが、主に稲武地区で植林のリーダー的存在だったのです。

 山本源吉は、嘉永5年(1852年)に梅村権平の子として生まれ、明治4年(1871年)に山本家に養子入り。翌明治5年(1872年)に、額田県より河辺村の村長に命じられます。20才の村長の登場です。その後、明治22年(1889年)に宮崎村長になります。村内の道路の整備など、インフラ整備を進めながら、額田郡会議員になりました。
 明治27年(1894年)に、山焼きを止めるよう、指導を始めます。郡会議員としてです。視察で見た他の地域で、スギやヒノキの人工林に囲まれた豊かな村(長篠城周辺?)を見て、このままではダメだと理解したからとのこと。

 明治30年(1897年)に、再び宮崎村の村長になります。村の共有林に、50年計画で毎年200本以上ものスギとヒノキを植える計画を立てたんです。500町歩=約500ヘクタールの造林地に仕上げたそうです。
 「植樹営林規定」を作り、苗木の無償配布、補助金制度を設けるなど、人工林ですが、村の資産を作っていったのです。

 まずは、明確なルールを作り、村民に理解を求めると言うより、欲望まみれの村民から、長期的視野に立って村の未来を説いていったのです。それまでは、草を取る場、薪をとる場で経済的価値の無い山でした。自己消費でしたからお金が発生するとは思えなかったのです。しかし、そこにスギやヒノキを植林する話。大きくなれば売れる=儲かる=分け前をよこせです。部落(字)によっては、分配する話まであったそうです。村有財産にしようとするのですが、なかなか賛同を得ることは出来ず、明治34年に1回目の村有林にする提案をするが否決されます。翌年も提案するものの否決です。その後、県の技術者や、役所の人を使って現地調査をし、50ヘクタールの村有林の造成にこぎ着けたとのこと。
 50ヘクタールは、部落の戸数を基準として提供してもらい、地味によって面積を調整、散在しているところは、いったん売却後、そのお金で、造林予定地に接する土地を購入し、団地化していったそうです。
 開始3年後には、拡大しようという話も村民から出たそうで、村の合併とともに、村有林も広がっていったそうです。林産物を運搬するための道路整備を拠出したりしていったそうです。

 そして、1本伐るごとに、7本植えることを自ら実践していきました。村長になって3年目には、林業講習会を開き、村人を指導しました。

 村がより発展する為に、大正11年(1922年)には、製材所を作ります。河原土工森林組合が出来ます。その動力を水力に求めました。昼間は、製材工場に、夜は組合員(村人)の電灯に使われました。

 昭和6年(1931年)に79才で没します。


 古橋源六郎暉皃(ふるはしげんろくろうてるのり)は、衰退した古橋家と村の再生、富家・富村を目指し、農業の振興に心血を注いだ人です。文化10年(1813年)に、三河古橋家5代目の次男として稲武町に生まれました。天保の飢饉を体験するのですが、そのときは、村の名主代行だったのです。
 「己を責めて人に施すときは今のとき也」と蔵を開放し、食料を村人に提供します。30万近い人が飢え死にしたという中、餓死者ゼロだったそうです。大阪の街でも、毎日100人が飢え死になったとのこと。東北諸藩で10〜20万人もの餓死者を出す羽目になったそうです。
 その後、天保7年(1836年)の三河最大の百姓一揆「加茂の総立ち」の際も、食料を提供したりして、一揆に参加させず、村を守ったのです。
 餓死者が出ることは無かった村の再建のために、茶栽培、養蚕を導入します。地形が、山であるため、その地形に適した産業で村おこしです。特に、植林に力を入れます。そして、その収益を教育に投資していったのです。