沖縄県    
  県木:リュウキュウマツ
Pinus luchuensis
県花:デイゴ
Erythrina variegata
 
杜(森)の話    
杜(森)の話
森を作った人・守った人 杜(森)のリンク どうでもいい話 戻る
         
  戦後の沖縄を緑にした木    ほうきはほうきでも 市町村花見  
  豊かになると見捨てられるソテツ   ソバかラーメンか  
  線香の材料 ホソバタブ   聖なる色はフクギから  
  ガジュマルとキジムナー   絡まる→ガジュマル  
  竹富島とギンネム   土地制度の歴史  
  サバニ   実行員による資源管理  
  三味線   砂糖のためにリュウキュウマツ  
  ウルシin沖縄    
  薩摩隼人は大っきらい    
  山の聖域 お嶽    


ほうきはほうきでも
掃除に必要な箒
沖縄本島ではホーチと呼ぶそうで、使うところによって材料が違うんです。

土間箒は、ソテツホーチといって、ソテツの葉を重ねて束ねたものを庭箒は、家の前箒という意味で、ヤンメーボーキといって琉球タケで作られるとか
畳や床は、ススキの穂か、稲藁の芯を用いるとか


 
ソバかラーメンか
”ソバ”なのに蕎麦粉のない”ソバ”。それが”沖縄そば”なんです。原料は小麦粉100%。
かつては、支那そば(中華ラーメン)と呼ばれていて、戦後になってから沖縄そばと呼ばれるようになったそうです。どちらかといえば、ラーメンに近いものを 感じますが。沖縄風中華麺といったほうが、沖縄宮廷料理の一つでもあったそうですから、なじみやすいような気もしますが。650年もの歴史があるそうで す。当時は、豚の赤身とネギが基本だったらしい。

この麺は、かん水(中国北方にある鹹湖(かんこ)の水で作った麺は弾力性があり、 滑らかだったためこう呼ばれた。)を使用してこね上げます。かん水といっても、支那から輸入するのではなく、地元の木の灰の上澄み液を用いるのです。もちろん、地元の木であるガジュマル(Ficus retusa)です。正当な沖縄そば屋では、”木灰そば”と銘打って出しているようです。

ちなみに、ソーキそばは戦後に誕生したソバなんだとか。
聖なる色はフクギから
沖縄の防風林として利用されているフクギ(Garcinia subelliptica)は、20メートル近く育つため、沖縄県や奄美諸島で重宝されている樹種です。

一方、明王朝と関係があったため、皇帝の色である黄色が重宝されていた琉球王朝では、染料として黄色が不可欠。その染料が大木のフクギの樹皮だったんです。
フクギの樹皮を乾燥させて煎じると黄色が得られます。しかし、この黄色を使えたのは、尚王家一族だけ。これ以外は、黄色の服は着てはいけなかったそうです。

絡まる→ガジュマル
榕樹は、ガジュマル。沖縄を代表するクワ科のガジュマルは、絞め殺し植物です。鳥の糞に混じった種が、宿木の上の方から発芽し、気根を垂らしていきます。地面に付くと、一気に太りだし、宿木を絞め殺すのです。

この名前の由来は、沖縄の方言、絡まるが訛ってガジュマルになったとのこと。

この生命力にあやかってか、ガジュマルの前には、御獄(うたき)と呼ばれる聖なる祈りの場があります。そして、キジムナーが住んでいるとのこと。


土地制度の歴史
1736年に琉球王府は、全島を対象とした測量の結果、杣山を設置します。杣山を系統だって整理したのは、蔡温です。この杣山は、林野全体御7割を占め、10万haを有しており、所有者は、琉球王府のもの。
但し、管理責任は、間切(今の市町村)、島(地区)、村(部落)となっており、実態は、入会林野でした。役人も数も限られれば、地元に管理を任せるしか出来ません。木を伐らすこと無く、落葉落枝、枯損木の利用のみ。琉球王府も他の政府も考えることは同じです。

琉球処分後、明治32年(1899年)の地租改正時に、杣山の大部分は国有林に編入されます。この時の処分方法は、「沖縄県土地整理法」に基づいて実施しました。沖縄の実情に合わせて作られた法律です。

昨日まで使っていた森林が、本来の持ち主に戻ってしまったため、住民の使える薪炭林がほとんど無い状態になります。明治39年(1906年)に、「沖縄県杣山特別処分規則」を作り、間切に有償で払い下げ、地元政府が地元のために管理することになりました。

明治41年(1908年)に、「沖縄県乃島嶼町村制」の施行により、村は字に、改称される。
これより、町村有林野が登場。部落有林野統一事業により、入会権の整理、町村帰属が進められた。

字有地とは、かつての村がもっていた林野のこと。基本は、耕作不適切地が林野であったため、農地と異なり、基本的に私有地の概念が無かったのです。

実行員による資源管理
部落有林野統一事業で市町村有林が出来るに従い、植林、施業が本格的に始まります。大正5年(1916年)頃から造林が開始されます。もちろん、蔡温が、海岸沿いには、テリハボク、アダン、リュウキュウマツを、内陸には、リュウキュウマツを植えることを奨励していたのですが、いかんせん、地元民より琉球王府のためと言うこともあり、地元民に利益が無いうちは、余り造林は進まなかったとか。

大正時代になってからの造林木には、リュウキュウマツ、テリハボク、イヌマキ、フクギ等が主要樹種になりました。
字有地の造林は、字住民の共同作業で、農閑期に行われるのですが、土地条件が悪いところでの植林のため、人工林の拡大は難しかったとのこと。

植えても、勝手に立木を伐ることは認められず、枯損木と落葉落枝、草の利用のみ。
立ち入り制限期間もあり、旧暦の2月上旬から中旬、7月下旬から8月上旬頃の10から14日間が設けられます。
伐採は、字や村のためになる場合に限られ、字長の許可が必要。また、字民から選ばれた実行員が資源管理を行っていた。
資源管理とは、盗伐対策のこと。辻に立って、森から出てきた字民&往来人の持ち物チェックをしていたんです。違反者はその場で没収。悪質な場合は、字役員が協議し、罰していたのです。

砂糖のためにリュウキュウマツ
明治35年(1902年)に物納から金納になったため、島嶼部では換金できる作物として粗糖期の本格導入が開始されます。しかし、サトウキビを作っても砂糖にしなければお金にならないと言うことで、砂糖を作るのですが、燃料不足と砂糖を入れる容器不足に陥ります。

砂糖を出荷する毎に外から木樽を購入すれば、儲けが減ります。このため、儲けようとリュウキュウマツを造林していくのです。基本、私有林での植林。理由は耕作不適地の活用です。

昭和13年(1938年)にはモクマオウが沖縄に導入されます。砂地でも育つため、防潮保安林のためもありましたが、5年で薪利用が可能なこと、萌芽力があることが導入の理由になりました。特に、樹幹が割れやすいので薪にしやすい、大量の落葉落枝は、燃料になるため、資源不足になりやすい、生活&精糖のための燃料問題を解決していくのでした。

多良間島では、せっせと植林するのですが、精糖の燃料に落葉落枝を燃料としたたため、緑肥不足に陥り、農業生産性を低下させたとか。また、戦後、沖縄の燃料事情は悪く、島外の高校に進学した子供への仕送りに薪があったそうです。

昭和25年から35年(1950〜60年)にかけて、鰹節作りが盛んになると、リュウキュウマツも燃料に利用。但し、樹皮を剥いで、焙乾工程に利用。

この様な植林してでも利用されたリュウキュウマツも、電気・ガスの普及により、その価値を落とし、資源利用から、景観保全に舵が切られたのでした。