県花/県木:ブンゴウメ Prunus mume var. bungo |
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椎茸の秘密を漏らした者は死あるのみ | 市町村花見 | |||||
ヤナギin大分 | ||||||
火山の煙で明日の天気 | ||||||
お箸の効能in九重山地 | ||||||
ウルシに負けたときに | ||||||
椎茸栽培は炭焼きから | ||||||
水防林in大分 | ||||||
ほら吹き?玖珠町伝説 | ||||||
一本の榧の木の寺 御留山は椎茸山 |
椎茸の秘密を漏らした者は死あるのみ 椎茸の栽培技術は海外持ち出し禁止だったのに、勝手に中国で栽培して、国内の椎茸業者というより、林業不振で、収入のほとんどない山間部の希望の商品だったのに、スーパーの売り上げといってもわずかな収益のために、技術を売り渡して・・・・ これが江戸時代なら、即死刑だったとか 大分の椎茸職人を茸山師(なばやまし)といって鉈1本をもって、原木に傷を入れるナタ目式栽培法という方法で、椎茸栽培を中国、九州のあちこちの山で、椎茸を作っていました。 豊後茸山師と敬意を持って呼ばれたとか。ちなみに、お頭のことを杣人(せんにん)と読びます。椎茸作りであちこち動いたため、各地にナタやセイタ(背板:昔のリュックサック)を各地に広めていきました。 頼まれたのに栽培に失敗すると村の人に消されたとか.金にはなるけど、結構リスクのある仕事だったそうです。 駒打ち方法が普及して、寂れたけれどね |
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ヤナギin大分 ヤナギにまつわる迷信(?) ◎カワヤナギの芽生えがよい年は豊作、遅いときは不作(西国東郡) ◎小正月にモチの屑をヤナギの箸で食べると歯が疼かない(南海部郡) ◎門前にヤナギがあると家運が傾き、屋根より大きくなると栄えない |
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火山の煙で明日の天気 飯田高原の人々の天気の見方 九重連山の火山の煙を見て判断するという農民の知恵 硫黄山の煙が久住山山頂に向かって登れば、明日は晴れ 飯田高原側に煙が向かうと明日は雨 煙にあわせて農作業を決めていたそうです。 |
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お箸の効能in九重山地 お箸による効能? その1 中風除けの箸 クロモジか、ツクシシャクナゲの箸を使うと良い その2 歯痛が治った後に お地蔵様に歯痛を治す願をかけて治ったら、そのお礼に年の数の箸をすだれ状にして奉納するといいとか その3 歯痛止め 直入町の「ふなば地蔵様」にハギの箸で歯の痛いところをさすった後にお供えすると不思議と治るとか その4 耳痛に ヤダケの節を底に残して、節に穴をあけたものを年の数だけ奉納すると耳が痛いときや聞こえない時になおる。 火吹き竹を耳に当てて風を送ると良い |
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ウルシに負けたときに 俗説ですのであしからず その1 油揚げを焼いて熱いうちに患部につける。 その2 クリの葉を煎じて患部に塗る その3 クリの葉をお風呂に入れる その4 サワガニを潰して塗る その5 オオケタデを潰して塗る 試された方はぜひその結果を教えてください。 |
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椎茸栽培は炭焼きから ナラの木やシイノキに鉈で切れ目を入れて椎茸を栽培する「鉈目式椎茸栽培法」。今は駒打ちですが、それまでの主流だった方法です。 これは、1660年頃(およそ350年前)の寛永年間に、佐伯藩千怒(ちぬ)の浦(津久見市)あたりで炭焼きを行っていた源兵衛という人が発見したとか。 発明ではなく発見は、炭焼き釜の周辺に転がっていた木に椎茸が出来るのを見て、椎茸造りのヒントを得たそうです。ナラの木やシイノキに茸が出来る。その他の木には出来ない。傷(切れ目)があるナラの木やシイの木に椎茸がいっぱい。この切り口の角度の法が、胞子がつきやすい方がよいなど観察の結果と試行錯誤。 元々キノコは天然で、キノコの知識無しでは、安心して採ることが出来なかったところを、安心して採れる栽培にしたというのは、革命的な取り組みだったのです。 炭作りのために、鉈で木を切り倒すのですが、どうしても傷が出来てしまいます。そして、木の太さによって、傷から生える椎茸の出来具合を理解したのです。伐採時期も、いつが良いのかを経験から判断します。結果は、秋の土用のこととのこと。この時に伐採したナラの木がよく生えると。 さらに、大量に雨が降った後の方が、出来が良いと言うことで、浸水法を、晩年に発見するのです。 そして、豊後の茸山師の誕生へと繋がってゆくんです。 この源兵衛さんが椎茸栽培の開祖と言われていますが、伊豆(静岡県)の人は違うと言いますのであしからず。 石渡清助という人が最初とも??? |
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水防林in大分 @大野川 別府湾に流れ込む大野川では、「クネ」と呼ばれる水防林があります。高田輪中(大野川と乙津川)と呼ばれる地域では、石垣で積み上げた土台の上に家を建て、家が流されないように水防林(クネ)で家を囲みます。 洪水は、豊かな土を農地に運んでくれる大事なイベント。だから、洪水は生きるという意味では必要。でも生き残るという意味では害以外の何ものでもありません。だから、生き残る(人も家も)意味で家の周囲に木を植えたのでした。流されずに引っかかるというか、紐でも縛れるから? 色々工夫もあって、家の中には、2階に簡単に逃げれるように途中で2手に分かれていたり、1階の座敷には壁が取り外せるようにというか、水に逆らわないために、取り外し可能な壁であったりと水害は発生して当たり前。いかに被害を小さくするかと言うことに視点を置いて生活しています。 盛り土の上に家 1階は壁があまりなく、水が流れやすい構造 (あえて氾濫した水に抵抗しない) 2階は貴重な家財道具を収納出来る構造 倉は母屋より高い位置にあります。小舟付き。 かつては浮いても良いように屋根は茅葺きだったそうです。 石垣の上に家があるんです。 サブタと呼ばれる方法で垂直に板を入れて水の進入を防ぐことも行われます。 |
洪水時には、家だけでなく、身体も木に縛ったそうで、命を守る大切な木。ケヤキ(Zelkova serrata)、ムクノキ(Aphananthe aspera)、エノキ(Celtis sinensis)が主な木として植樹されていました。 ヒヤキとは、小麦粉を練って焼いた非常食。 洪水前に用意します。一応保存食でもあります。 向こう岸の緑は竹林。 洪水時に鉄砲水を受ける役目があり、加藤清正時代には溢流堤(いつりゅうてい)と呼ばれる川→竹林→空池という順で被害を最小限にしていたそうです。 |
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ほら吹き?玖珠町伝説 伐株山伝説 昔々、玖珠盆地の中ほどの万年山の北側に、天にも届きそうな大きなクスノキ(Cinnamomum Camphora)があったんです。そのあまりの大きさに、朝日のときは有明海まで影が届き、夕陽のときには四国の松山まで影がかかる大木だったため、玖珠町の人はいつも日陰。そんな大木の影のために作物はおろか、人間まで病気になって倒れたりと迷惑千万な大木だったんです。 それに困った庄屋は、きこりに頼んで「切り倒してくれ!」と頼んだが、畳3枚敷きほどもあるノコギリをもってしても、なかなか切れず。そんなこんなの時に、身の丈が九百尺もある大男があらわれ、今度は大きなオノで倒そうとするけど、切っても切っても次の日に切り口が元に戻ってしまう。どうしたものかと悩んでいたときにヘクソカズラ(屁糞葛:灸花:屍草:古名はクソカズラ(糞葛・屎葛)Paederia scandens var. mairei Paederia) の精があらわれ、「毎日切っただけの木くずは、焼き捨ててしまえばいい」と教えてくれたんです。それから3年3ヵ月かかって大男ときこりの手によって、大きなクスノキを倒すことが出来たそうです。 そのとき、玖珠盆地や日田盆地は大きな湖だったのが、倒れた勢いで水が溢れ出して、倒れた木の跡の玖珠川ができ、水が流れ出して引いた(日田)ので日田に。倒れた時に「ここまで水は来るめ〜」で(久留米)になり、クスの木の先が長かったので、(長崎)になり、葉のあとがついた葉形で、(博多)になり、鳥の巣が落ちたところが鳥栖。川に浮いていた葉が留まったところが浮羽。そして残った切株が、伐株山、伐った時にはねた土が出来た山が万年山(はねやま)。さらには伐った時の衝撃で飛んできた石が当たって大分(大痛いよぉ)になったと伝えられています。 こうした話を信じる人を見てクスクス笑うところから玖珠町?。この玖珠町の地名も、このクスノキに由来しているとのこと。 |
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一本の榧の木の寺 国宝に指定されている本堂のある蓮華山富貴寺(蕗寺)。 国東半島の中にあり、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の一つ。所属は天台宗。豊後高田市 養老2年(718年)に仁聞菩薩(にんもんぼさつ)の開基。 このあたりは、山岳信仰のメッカ 高さ970丈もある榧(かや:Torreya nucifera)の大木がありました。その影は数キロを越えにもおよんだそうです。竹田番匠が、この榧の木一本で大堂を造り、仏像を刻んだのです。この余った木材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなりました。その地に建てたお堂が、真木の大堂なんです。 境内の富貴寺大堂は平安末期の12世紀後半に創建された阿弥陀堂形式の建築で、九州最古の木造建築。国宝に指定されていて、京都の平等院の鳳凰堂、岩手の中尊寺の金色堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂の一つ。 内部には重文の本尊の阿弥陀如来座像と日本の四大壁画の一つに数えられている重文の壁画があり、雨天・雪等、湿気が高くなった時には保護のため見学できない。また、境内には国東塔や板碑、笠塔婆、仁王像、梵字石などがたくさんあります。 |
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御留山は椎茸山 普通、江戸時代の御留山とは、木材備蓄のための藩有林であることが多いのですが、豊後岡藩の中川藩主は、寛文年代(1661〜1673年)に、源兵衛の椎茸栽培を導入して、用材林ではなく、NTFPとよばれる林産物=椎茸の森を作ったのです。 この椎茸、ただの椎茸ではなく、安心して食べられるキノコと言うことで、他藩への輸出=貴重な収入源になるのです。 中川藩直営で椎茸栽培が行われます。 さらに、源兵衛が切り開いた椎茸栽培を、より完成に近づけたのが、重吉という山子(きこり)は、功績の結果、帯刀御免にまでなったとか。 同様に、佐伯藩でも尺間村の良吉のおかげで、椎茸栽培が軌道に乗り、財源を支えます。さらなる財源を確保するため、栽培者に保護奨学金を出すのです。 なお、江戸時代に一大勢力となった大分の椎茸栽培技術者は、明治の初めに、新天地を探して、全国各地に出稼ぎに行ったそうです。 |