青森県  
  県木:ヒバ
Thujopsis dolabrata
県花:リンゴの花
Malus pumila
 
杜(森)の話  
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  魚釣りは山を見てから    市町村花見  
  日本の危機を救ったヒバ      
  命を救う山の幸      
  ウルシin青森      
  蚊殺しの木      
  山に感謝で3回挨拶       
  義経の伝えた成木責め      
  芝刈りとは言わず 
鉄道防雪林
     
 
魚釣りは山を見てから
津軽の蟹田での話。
イワシ漁を行うに当たっての漁期の見方
「野田の山の雪が溶けるまではイワシ漁はナシ」
「さびたの花が咲くとイワシ漁は終わり」


こういった釣り情報は地方には、いっぱいあるんでしょうね


 
日本の危機を救ったヒバ
日本が日本でなくなるかも知れなかった元寇の役。この時の立て役者の一つに安東水軍があげられます。
13世紀から15世紀にかけて、北海道からサハリン地域を支配していた十三湊を拠点にしていた海の武士団or交易団だったそうです。

安東水軍は、津軽出身の水軍。その水軍の軍船がヒバで出来ていたんです。ヒバ(Thujopsis dolabrata)は、腐りにくいという特性があり、船には最高。ヒノキアスナロと呼ばれ、ヒノキチオールが防虫、抗菌効果が高いのです。

いまでも、シロアリに強いことで有名

一方のモンゴル軍は、壱岐で1ヶ月以上待ち、その間に船が傷んだとか。船底に貝がついたり、腐ったりと。まぁ、海洋民でない朝鮮人が必死に作ったのでクオリティーにも問題があったとは思いますが。

一方のヒバで出来た安東水軍の船は頑丈で、ヒバの持つ特性のお陰で、暴れまくったんです。ということで、ヒバの特性で日本が救われたんです。

北条時宗だけではなかったのです。未曾有の危機を救ったのは木の特性が意外なところで活躍したんです。


命を救う山の幸
東北地方といえば、飢饉。山といえば、農民にとっては、肥料のための落ち葉、薪や炭、木材、馬などの飼料を利用するところ。

しかし、ひとたび飢饉が来れば、人は、山に登るとか、山に入るという表現でクズの根や、ワラビの根、ユリの根、カヤの根等々。そこらの草を食べて命をつないだそうです。もちろん、ドングリの実もですけど

ちなみに、「耕作口伝書」という本があります。一戸定右衛門によって凶作対策の農業の仕方について書かれています。

岩木山に降る雪、解ける雪の時期によって、その年の気候を予想し、農業の仕方等。今のマニュアルです。












ウルシin青森
青森を代表する漆器は津軽塗り

弘前市を中心に、17世紀後半から津軽藩により、振興され発展したんです。津軽藩主、津軽信政が元禄年間にに奨励したらしい

素地は青森の木であるヒバを利用します。
堅牢で実用性の高いのが特色です。

伝統技術として、唐塗(からぬり)、ななこ塗、錦塗、紋紗塗(もんしゃぬり)

○唐塗
 下塗りした上の卵白を加えた黒ウルシ「仕かけ漆」



蚊殺しの木
青森を代表する木アスナロことヒバ(Thujopsis dolabrata)
このヒバの木の皮を泥につけるんだそうです。そして乾燥させて縄を綯うように紐にして火をつけると・・・・・

どすんと蚊が落ちるんだそうです。

ちなみに総ヒバ造りの家には、蚊は入ってこないとか。入れないのかもしれません。






みちのく北方漁船博物館
http://www.mtwbm.com/


山に感謝で3回挨拶
ムダマハギとは、東北地方北部から北海道にかけて分布した船のこと。ムダマハギとは、ムダマを部材として造船した船で、ハギは、継ぎ接ぎのこと。
ムダマは、太い木材を刳りぬいたもので、浅い丸木船を指すそうで、丸木船から進化した船といっても良いかもしれません。丸木船になるような大きな木材が不足したため、継ぎ接ぎで対応することになったんでしょうかね。

伐るときのコツとして、割れないようにしないといけないため、マサカリで受け(シギリ)を作り、鋸とくさび(ヤ)で切り倒すこと。そして、木は山の神様の物ということで、山出しをフネヒキといい、船尾部(トモ)を前にして、後方に3回引っ張った後、前に引き出すんだそうです。3回というのは山の神様への別れの挨拶ということらしいです。


義経の伝えた成木責め
兄に追われ、北へ逃げた義経。一説には、奥州藤原氏の勢力を奪うために派遣された刺客だった噂も。

その後の結果を見れば・・・・・

しかし、数多くある義経の生存説。海を渡って大陸へは眉唾として、八戸にもその落ち延びた噂があるんです。

その辿り着いた村では、花が咲くだけの梅の木があったんです。周りを見渡せば、目に病気を持った村人達。そこで、義経は、梅肉エキスが眼病に効くということで、花しか付けない梅の木に実を付けさせたんです。

いわゆる成木責め。

そして、梅のみを食べる習慣が始まり、八戸というか、南部名物の梅漬けまで発展したのでした。



芝刈りとは言わず
青森の八戸の方言だけかもしれませんが、薪を山から集めてくることを”たきぎ切り”というそうです。落枝を拾うのではなく、切って集めていたと言うことなんでしょうかね。


鉄道防雪林
写真は、新青森駅の防雪林です。青森県といえば、とりめし弁当で有名な野辺地の鉄道防雪林ですが、雪のある青森県では、あちらこちらにあります。
野辺地は、日本最初の鉄道防雪林で、明治26年(1893年)5月に植林。設計者は、日本林学の父、本多静六です。

明治24年(1891年)に鉄道は出来たのですが、雪で運行停止が多発。どうにもこうにもならない中、ドイツ帰りの本多静六が、渋沢栄一に助言して作ったのが、野辺地を中心に各地にある鉄道防雪林です。

横から来る地吹雪が線路に堆積することを防ぐために、木を植えたのです。それまでは、板を設置したりしたそうですが、機関車からの煤煙によって.燃えることがあったそうです。その点、生きている木は、水分を含んでいるので、ちょっとやそっとでは、燃えません。

大きくなるまでは、雪囲いをして木を育てたそうです。大きくなった木、成林すると、伐って加工したのです。もちろん、鉄道会社直営の製材所です。そして、伐って製材した木は、駅の校舎に使ったり、枕木に使用したとか。ただ植えるだけで無く、鉄道林の管理(間伐や更新)の費用の捻出も、鉄道業務の後押しもしていたのです。

恐るべし、本多静六です。







新青森駅から