道木:エゾマツ Picea jezoensis |
道花:ハマナス Rosa rugosa |
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カラマツの防風林 | 日本一の桜並木 | 北海道に関連する本 | ||||
アイヌの入れ墨(シエヌ)の材料は | 森がある凄さ | |||||
ニシン漁の神さまは、山の神? | 神様がくれた柳の葉 | |||||
服は、ニレの木から | 木を植えて牡蠣戻る | |||||
アイヌの嫌いな木はハンノキ | 防霧林 | |||||
子供が産まれたら | アイヌ民族による虐殺? | |||||
七夕ってヤナギに短冊 | 世界の針葉樹の森 | |||||
鉄道を守るよそ者 ドイツトウヒ | 根っこは爆破 | |||||
コンコン 伐っていい? | 苦労の鉄道防備林 | |||||
木材がイギリスで棺桶に |
深川林地の行き方 |
日本一の桜並木 静内町にある桜並木 日本一というのはあちこちにあるけど、ここはエゾ桜の並木では日本一ということ?なのかよく分からない。(^^; 別名二十間道路並木で7qにわたる桜並木。 大正5年(1916年)から3年モノ年月をかけて、近隣の山からエゾヤマザクラ(Prunus sargentii)を移植したのが始まり。当時の道の幅が20間(36m)だったからこの名が付いたそうです。 5月上旬が見頃です。 ただいま、秋にも人にきてもらおうとコスモスロードがあります。なんと静内町の町民の数と一緒のコスモスが植えられているそうです。静内町の町民数は23500人ほどだそうです。 |
静内町 http://www.hokkai.or.jp/shizunai/ |
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森がなかった頃の海の様子(昭和36年)1961年 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 43年後の海の様子。2004年(平成16年) 平成になってからの襟裳岬 参考写真:よみがえる国土 ―写真で見る治山事業100年の歩み― |
森がある凄さ NHKのプロジェクトXで取り上げられた襟裳岬の植林。 明治の入植者は、襟裳にも来ました。生活の糧を得るためです。元々は、昆布漁が盛んで、広葉樹の森もありました。しかし、農業開発や短角牛の放牧によって、森林が破壊されました。他の北海道と同じです。他の地域は、防風林を作り、農業を持続的に生産できるようにしていました。襟裳だけは違っていました。木を植えても植えても育たなかったのです。他の北海道の地域と決定的に違うのでは、「強風」です。植栽した木も、強風で煽られれば、ストレスを感じて駄目になってしまいます。表土などの養分も風で飛ばされました。かつての広葉樹の森林が作ってくれた養分のある表土を失い、痩せた台地「襟裳砂漠」になたのです。痩せた台地の砂は、海に流れ込むことで、昆布の漁場を荒らし、海産物が取れない状況に、漁師を追い込みます。人々が襟裳から離れると言うことになったのです。 昭和28年(1953年)に、浦河営林署えりも治山事業所が新設され、国による緑化事業が開始されます。しかし、強風がネックでうまくいきませんでしたが、「えりも式緑化工法」が開発されました。4年後の昭和32年(1957年)のことです。 海岸に打ち上げられた海藻の塊「ゴタ」を、草の種の上に置き、種の重しとして、種の肥料として使われるようになりました。今まで見向きもされなかった海藻の利用です。昭和45年(1970年)には、草本緑化は終了。残すは森のみです。 植林は、昭和29年(1954年)にカシワの木やクロマツを試験造林し、昭和33年(1958年)から本格的に植栽開始。 この結果、昭和45年(1970年)に砂漠から草地になりました。その後も木を植え続け、今に至っています。植林の効果ですが、昭和40年(1965年)の海産物が230トン程度だったのに対し、、平成19年(2007年)は、2500トン近い収穫になりました。10倍以上です。 昭和28年の襟裳砂漠の様子 参考写真:よみがえる国土 ―写真で見る治山事業100年の歩み― |
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神様がくれた柳の葉 柳葉魚とは、ススハム。アイヌ語のスス(柳)とハム(葉)でススハム。学名はSpirinchus lanceolatus。一般名はシシャモのこと。 柳の葉というのは、アイヌの神様が、柳の葉を川に落としたら、魚になったという由来から。シシャモが川というのは、鮭と一緒で遡上して産卵するからです。 何故、神様がくれたかというと、それは食糧難に陥った鵜川のアイヌの親孝行の娘が、神様に祈ったからとも。その願いに答えて、そこら辺にある柳の葉(というか身近な利用していた木)を利用したんです。おかげで食糧難からは脱出。挙げ句の果てには、猫またぎといわれ、猫すら食べない魚に。 でも、鵜川のアイヌの人は、シシャモカムイノミといって、シシャモの神送りという感謝のしるしを儀式にしていました・ |
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厚岸の道の駅の牡蠣尽くし。 厚岸湾の風景。 湿原とパイロットフォレスト |
木を植えて牡蠣戻る 厚岸湾の牡蠣。古代から食されていたのだが、昭和初期には一度全滅へ。1937年(昭和12年)に犬飼哲夫によってその因果関係が森林の消失と海との関わりであると突き止められていたんです。江戸時代には「塩牡蛎(しおがき)」として商品化されるほど豊富にとれ、明治時代には缶詰工場まで出来るほどに大繁盛。しかし、明治後期になると漁獲量が激減し、1930年代に入ると絶滅状態になった。 入植者による開墾。火入れで農地造成。湿原地帯の草原を燃やしていたが、失火から森林まで消失。寒冷地で農業失敗。生活のため木を伐っては売って生計を立てる。森林破壊が行われたんです。 そして厚岸湾は赤くなった(流亡した土の色)のが因果関係として指摘されたんです。 林野庁は厚岸湾の上流に位置する大湿原(ベカンベウシ川)を有効利用しようと思い、植林に。農業として利用価値がないから林業というのがあったんでしょう。一般的には、パイロットフォレストいう名称で有名。別海村のパイロットファームは、社会の授業で習う(?)くらい有名なんですが、それの林業版というべき物でしょうか。 昭和29年(1954年)に事業開始。 森林が出来るに従って、土砂流亡が押さえられ、泥によって窒息死することが無くなり、水温の変化が抑えられ、安定的に牡蠣が採れるようになったんです。 カラマツの造成林 --------パイロットフォレスト一口メモ---------- 厚岸湖に注ぎ込む別寒辺牛川の中流域に位置する国有林の団地21,867hのうち、計画的に造成された10,778ha(うち森林は7,786ha、湿原は2,756ha)の区域をパイロットフォレストと呼び、全般的に緩傾斜の波状の丘陵地帯。年平均気温は6℃。年平均降水量は1,000mm
昭和32〜41年(1957〜66年)の10年間で延べ44万人、総額40億円(当時) |
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防霧林 厚岸から根室に向けての海岸防備林 防風林と言うよりは防霧林という方が正しいらしい。 海で発生する霧=海霧が内陸に進入すると、日射が遮られ、気温が上がらず、農作物の収量に悪影響を及ぼすとのこと。このため、木々の葉があることで、霧を水滴に変換してくれて、霧を無くす機能を持っています。 |
納沙布岬より |
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アイヌ民族による虐殺? コロポックル(koropokkur)は、アイヌの伝承に登場する小人で、蕗(アキタブキ:ラワンブキ:Petasites japonicus var. giganteus)より小さい小人とのこと。てっきり本州に普通にある蕗を連想していたけど、北海道に来てびっくり。1m以上。なかには3mになる蕗があるんです。 コロポックルは蕗に隠れていて姿を見せないが、アイヌの若者に捕らえられたのち、姿を消したという民話。 アイヌの夫人が入れ墨を手の甲にするのは、このころ捕まえた小人が入れ墨のある美しい女性だったからで、その美貌にあやかったとか。 居なくなったって事は、滅ぼされたということなんでしょうね。民族抹殺の証が伝承になって残っているのです。 |
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世界の針葉樹の森 日本初の針葉樹の樹木園。 帯広にある庭園。 http://www.manabegarden.jp/ |
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根っこは爆破 開拓時代の北海道。農地や牧場を増やすことが急務でした。増やすというのは、森を切り開くこと。木を伐るだけでは駄目です。根っこが残っているからです。 当時は、ブルドーザーがあるわけでは無いので、手掘りです。そんな時間のかかることを省くため、ダイナマイトで爆破していたそうです。 |
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苦労の鉄道防備林 雪に弱い鉄道を守るために役立つ鉄道防雪林。しかし、簡単に作れるモノではありません。木の生長には時間もかかります。 宗谷線剣渕〜士別間は、元々木がほとんど無いところに鉄道が設置されました。しかし、冬季は積雪で鉄道網が麻痺します。このため、大正4年(1915年)にヤチダモを植林するのですが、失敗。鉄道の横は、樹木の生育に適さない過湿泥炭地だったのです。その後、鉄道技師の深川冬至氏が、試行錯誤の上、郷土樹種は駄目として、ドイツトウヒを導入します。 まずは、強酸性土壌を中和させるために、客土と石灰を散布し、石灰土壌に適した樹種ということで、ドイツトウヒを植栽。 一方、湿地帯であったため、水をなんとかしないと根腐れを起こします。このため、排水溝を作って、地下水を下げる=水抜きもしたのです。 成林するのが、昭和17年(1942年)ですから、27年もの月日がかかりました。 |
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@剣淵駅に行きます。 駅前にある丸八小沢商店で入場券と記念スタンプを押します。 A剣淵高等学校に向かいます。 B少し先に剣淵町B&G海洋センター体育館の裏側に行きます。 この奥に緑地帯があります。 ここで、「線路に入らないでください。」という標識を探します。 笹で隠れています。 小道がありますので、そこが入り口です。 橋を2つ渡ります。 ドイツトウヒの中に入ります。 線路にぶつかります。 |
深川林地の行き方 鉄道防雪林に生涯を捧げた深川冬至氏の業績をたたえ、線路の両脇12.7キロ、68.4ヘクタールの宗谷線剣淵・士別間鉄道防雪林を深川林地と呼んでいます。 土木学会が、日本の近代化に貢献した土木事業と言うことで、土木遺産に認定されています。 |