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備中屋長左衛門と紀州の炭焼き職人
備長炭の生みの親、和歌山は田辺で炭問屋を商っていた人で、ブランド作戦で、江戸に売り込みが成功したひとです。
この炭を持続的に生産するため、独自の択伐。(抜き切り)を開発し、実践したのです。その方法は、冬の1、2月に伐採し、切るところは、地面ぎりぎり、しかも、平らにすることで、ぼう芽更新をしやすくしたんです。
そして、木の形によって、切る量を調整していたそうです。
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煙樹の松林を守った人
川瀬勘右衛門
徳川吉宗までは、紀州藩は、徹底した山林保護政策によって山が守られてきたのですが、6代藩主徳川宗直の頃から、木の国紀州藩の山林保護政策が緩やかになってきました。
城が火事で焼失したため、和歌山城の築城のために、木材の供出を農民に、強制したのです。度重なる、要請(強制)に寛永元年(1848年)、ぷっつんした和田村(今の美浜町)の庄屋達が立ち上がり藩に松林の伐採の撤回を請願しました。
このときの、代表が大庄屋の川瀬勘右衛門。海岸の松林を切れば、塩、砂、風の被害が農業にもろ影響が出るのを防いだ行為だったのです。
一歩間違えれば死罪。しかし、自分の死すら恐れず、生活環境を守った姿には頭が上がりません。こんな人が、全国にいたのかと思うと、感動します。
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美浜町のホームページ
http://www.town.mihama.wakayama.jp/
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南方熊楠
驚異的な記憶力 和歌山の田辺が生んだ巨人。糸田の猿神社のタブの木が切られたとき、日本初の自然保護者になる。(多分)
明治39年12月に発せされた神社合祀令
市町村に一つの社ということで小さい神社を潰して、整理しようとしたがそのうち、神社を売り飛ばして、その敷地内の木や土地で儲けようと、また中央からの命令だったので功績を挙げようとする役人によって神社が潰されたんです。
詳しいことは、神坂次郎の「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」がおもしろいです。いろいろ本が出ていますが、20年以上にわたって、自然保護(神社合祀反対)を訴え続け明治天皇の前で、粘菌学を講義した田辺湾の神島を守ることによって、唯一残っていた原生林を守ることに成功したんです。
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浜口儀兵衛(浜口梧陵)
小泉八雲ことハーンの「生け神:living god」のモデル。『稲むらの火』の物語のモデル。1854年(安政元年)の12月23日および24日の(今の11月4日5日)安政東海地震と安政南海地震の時に村人を守ったんです。
醤油製造業であった浜口儀兵衛は、当時34歳、すすき(籾を取り除いた後のわらの堆積物)に火を放って高台に村人を集め、津波による二次災害を最小限にしたとか
暗くなったので、道沿いの稲穂を(収穫前の)燃やして灯りをそして高台へ村人を招いたんです。その後、海岸に私財を投じて高さ4.5m、全長650mの堤防を作りました。そこに堤防の安定のために木も植えたのですが基本的にマツだったそうです。(だいぶ枯れてしまったとか)1946年の南海地震も守ってくれたとか
津波にやられ、職を失った人に建築という仕事を与えたのはすごいことだというのはいうまでもありません。
しかも、私費ですよ。今、あちこちで、国会議員に頼んで公共事業を取ろうとする地方の有力者があちこちにいると聞いています。見習ってほしいモノです。
また、幕末期に教育がすべてということで耐久塾を開き教育にも力を注ぎました。1820年(文政3年)6月15日に有田郡広川町に生まれ、12歳の時に本家に養子に。1871年(明治4年)に大久保利通の命を受けて、現在の郵政大臣に就任。1880年(明治13年)に和歌山県議会の初代議長に民主主義を広めることにも尽力をまた、ヤマサ醤油(株)の七代目として和歌山から銚子に移った人でもあります。また、移った千葉県の医療の発展のためにパトロンとしても活躍
また、1885年(明治18年)4月21日にアメリカで客死してしまいますが、その業績には頭が下がります。
もちろん堤防を作るに当たっては、彼以外にも地元の有力者も津波の被害に対し、米やお金を被害民に援助したんですけど。その規模が桁違いに違っただけなんですけど。
広村堤防は紀勢本線湯浅駅から徒歩で行けるとのこと
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津波とたたかった人―浜口梧陵伝
「稲むらの火」の文化史
稲むらの火 webサイト
http://www.inamuranohi.jp/
広川町商工会
http://www2.w-shokokai.or.jp/hirogawa/night/index4.html
耐久高校
http://www.naxnet.or.jp/~taikyu/
ヤマサ醤油(株)
http://www.yamasa.com/
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