松の木が支えた江戸の水
江戸100万人の生活用水として有名な玉川用水。武蔵野の農民、玉川庄右衛門、清右衛門兄弟。全長43キロの用水
これを支えた通水パイプ。今なら、素材は塩ビとかになるのか、当時はそんな素材はなし。ということで松の木をくりぬいて作ったんです。江戸の町では、マツやヒノキで地中に管を作って引いていたとか
たかが農民の作った玉川用水。でもそこには高度な高等数学、測量技術。サイフォン技術と凄いの一言
たかが農民、されど能民
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人工の森・天然の森
都内にある森
明治神宮の森は人工の森。1912年に明治天皇が崩御した後に造営。最初、12万本ののうち、10万本は国民からの贈り物。延べ11万の人手で森が作られたんです。もちろん、国民のご奉仕で出来た森。
山手線川の樹種は機関車の煤煙に大丈夫な木を常緑でありたいということで、シイ、カシ、クスの木を中心にサクラを除いて花や果実のなる木を植えなかったそうです。
造園の基本方針は、天然更新。落ち葉すら持ち出しは禁止なんです。
一方の天然の森は、目黒駅近くの白金自然教育園。もともとは、水戸光圀の兄に当たる松平讃岐守頼重の下屋敷。明治時代は陸海軍の火薬庫。大正時代に白金御料地と変遷。火薬庫時代に手つかずに自然の遷移に任せたので、天然林になったんです。
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金がないので松の壁
日本の中心は皇居。でもそこは徳川幕府のお城、江戸城だったのは周知の事実。
その皇居(江戸城)の周りには松の木がいっぱい。なぜかというと、松を植えたから。
その理由は財政難からだとか。徳川家康がため込んだ金銀財宝は、将軍が変わるたんびに減る一方。そして底に付いた時に誕生したのが、暴れん坊将軍吉宗。
無い袖は振れぬで始まった享保改革。
その一つが、台風などの自然災害でたびたび壊れる江戸城の堀を作り直すことにも影響。壊れた塀を作り直すにはお金がかかる。しかしお金はない。1722年(享保7年)に決断したんです。江戸城の周りを松に変えると。
当時は戦争もなく平和だったから出来た芸当ともいえる松の回廊。お金の節約が、今の皇居にある松林を生んだんです。
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コカの栽培
日本の亜熱帯は沖縄だけ無く東京は小笠原も含まれます。その地の利を利用した栽培が戦前にも行われていたんです。
その代表がコカ(Erythtoxylon coca)なんです。
その栽培地が、第二次世界大戦の激戦地の一つ硫黄島だったんです。1889年(明治22年)から硫黄の採集と漁業のために入植が開始し、その後島民が定着。そして島の産業ということで、サトウキビやコカ、レモングラスが導入されたんです。
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青梅林業の歴史
青梅林業は、明治時代から戦後までは薪炭林業が主流だったんです。本格的な人工林経営は明治に入ってから。
薪炭林経営は、炭焼き職人が山を買うスタイル。1ないし2ヘクタールの土地を買うんです。そして冬になると炭を焼くんです。その土地は15年放置するというか、15年後にまた炭を作る循環サイクルだったんです。
スギ、ヒノキの適地(土壌がよいので)なのですが、短伐期経営をしても30〜35年。プラス間伐などの手入れがあります。だから炭造りの方が儲かっていたとか。
短伐期林業というのは江戸時代からの名残。江戸の足場丸太、小角材といった小径木を提供していたからなんです。
スギ、ヒノキは道が悪いので車での運送は出来なかったんです。管流しといって1本1本バラバラに川に流したんです。それをある程度水量がある川に来れば筏流しになったんです。
筏は今の大田区あたりまで運ばれたそうです、
昭和30年代の高度経済成長期になると、薪や炭が売れなくなり、広葉樹を伐ったあとにスギ、ヒノキの植林、拡大造林を始めたんです。一つの理由は戦後の復興で、スギ、ヒノキの値が高騰したから。
このときちょっとしたバブルで、土地無しの人まで植林したんです。それは土地を借りて植林。一種の投資です。地元では「植え分け」と呼ばれる分収造林。山の所有者と立木の所有者が異なるという分収林となったのです。数十年後に大金持ちという夢を見て・・・・(T
T)
今荒れている山はその残骸だそうです。夢やぶれて・・
日の出町は卒塔婆の産地。これは、モミノキなんです。色が白く、墨の字がしみないからモミノキを使うんです。それ以上に自生のモミノキが豊富にあったからとか。
青梅林業でいう「立ち木」とは、高齢木のこと。短伐期経営の中で、ヘクタールあたり10数本を残したそうです。短伐期経営が3回ほど繰り返されると大径木に。これは境界木としても利用。そして不意の出費に備えていたそうです。
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高尾山薬王院有喜寺
http://www.takaosan.or.jp/
http://www.takaosan.or.jp/goma-s.html
京王電鉄
http://www.keio.co.jp/
高尾登山電鉄株式会社
http://www.takaotozan.co.jp/
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杉を奉納して森作り
東京を代表するハイキングコースでもある高尾山。
奈良時代、天平16年(744年)に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が自ら薬師如来の尊像を刻み、安置して東国鎮護の霊場として、高尾山を開基された由緒あるお寺。成田山新勝寺と川崎大師平間寺とならぶ関東三大本山の一つ。
飯縄大権現を御本尊として奉祀しており、俊源大徳をもって高尾山中輿の祖としているありがたいお寺。ということで、時の有力者も大切に扱っており、戦国時代には、武田信玄、上杉謙信も共々に飯縄大権現を信奉。北条氏康・氏照親子の信仰も篤く、寺領の寄進はもちろん、保護してきたんです。
天正6年(1578年)の北条氏照の文書には「高尾山内の竹林一草たりとも、みだりに伐った者は首を切る」と厳罰を示すものがあるそうで、大事にされてきたんです。江戸時代は庶民の信仰の場としても活躍。
で、その後お願い事がかなったらハイサヨナラというわけにはいきません。それなりにお礼をするのが人としての行いです(?)ということで、苗木を奉納していていたんです。
今でも1年間杉苗奉納者は芳名板で紹介されます。
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新木場の歴史
江戸の木材産業は、慶安3年(1650年)頃に、今の日本橋周辺に木材業者を集めたことが発端。幾度と無く起こる火事に対処して、人のいない深川に元禄14年(1701年)に移転
昭和35年(1960年)頃まで栄えるんですが、手狭ということで、夢の島(14号埋め立て地)に移転。風水害で材木が流出して住宅地に被害が出るのを防ぐ意味があったこと、これまで国内の木材の集積であったが、海外からの木材輸入に移っていったことが主な理由。
15号埋め立て地は、輸入米材製材品の荷揚げ埠頭に
新木場には企業数300、112万m2の土地、48万m2の水面貯木場を持っています。
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