魚付き林の最初は
魚付き林、魚を増やすために存在する林。天暦年間(955年頃)に日本の歴史で分かる範囲ですが初の魚付き林が作られたんです。
里浦の海岸に防潮林をかねてクロマツの森を作ったんだそうです。
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山の男が一人前と扱ってもらうには
那賀川の上流にある木頭村。
魚梁瀬スギの裏側に位置し、昔から林業の盛んな地域。ここでは、一人前の男として扱ってもらえるのは丸太乗りが出来ること。1本丸太に乗って川が下れること。
それが出来ないと、嫁さんが来なかったとか。
昭和30年代の話だそうです。
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吉野川流域の洪水対策
四国三郎と言う別名を持っている吉野川。
この川のすごいことは洪水時のピークの水量が日本一であるということです。
可動堰の話題で盛り上がっているようですが、洪水対策の知恵として、次の木の利用があります。
洪水の水の勢いを弱めるために屋敷のまわりにタケやヤナギを植栽する。同じように水の勢いを弱めるため堤防にも植栽。洪水後の土地の境界のトラブルを未然に防ぐための境界木「地境木(ちざかいき)」。
洪水時の緊急避難用としての「避難木」を屋敷のまわりに植栽。洪水時の家屋の流出を防ぐため「水防林」。
場所によっては、石垣で家を囲んだり、高く築いた地盤に家を建てたりしていました。
最大の対策は、秋の洪水を避ける農作物ということで藍を導入したことです。藩も後押ししたんです。藍は、9月までに収穫できるということで。また、氾濫によって土地に養分が供給されるという水防林が岩や石を押しとどめ、泥だけを流すふるいの役目をしたんです。
だから、洪水は農家にとって歓迎されたという話もあったんです。
究極の治水対策・洪水対策
それは、災害を受け入れること
そういうのはダメなんでしょうかね
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松下師一研究室
http://www.infoeddy.ne.jp/~shiichi/index.htm
徳島藩地方改革における吉野川治水事業
http://www.infoeddy.ne.jp/~shiichi/ronbun/yoshinogawa/
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藍については、こちらのHPを
「藍 Japan Blue」
http://www.mandala.ne.jp/ai/index.html
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徳島といえば藍
藍の豊作を祈って
藍の種をまくとき、豊饒を祈って苗畑に御神酒を振りまきます。御神酒を振りまいた後、種をまくのですが、その一角に、花瓶にヒノキの葉を挿します。
収穫した葉を天日で干して、スクモを作る時もヒノキの葉を使います。スクモとは、葉藍に水をかけて(寝こせみ)発酵させることです。スクモを水に溶いて、藍の染料が出来ます。
寝こせみが終わった床に御神酒をかけるのですが、その時にも、ヒノキの葉をさします。床に神が宿るそうです。
ヒノキを庭に植えると虫が来ないという話を聞きます。ヒノキの下には植物が生えません。アレロパシーがきついんです。何か意味があるんでしょうかね?
発酵具合を見るのに、近くの木の葉の変化(紅葉の具合)をみて次の作業に取りかかるとか
生き物相手の商売なので、生物時間を利用しているんですね
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線香の材料 シロダモ
宍喰町の話
日本あちこちに仏教の影響でお線香の需要があります。そこで、身近な植物を利用するということで、ここでは、シロダモを材料として利用したとか
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造林と焼畑
畑する代わりに
藩の御料林で焼畑を営んだ話
場所は木頭村
ここでは3年間の間土地を借りて農業をしたんですが農業といっても急峻な山地。焼畑だったんです。
この時、農民は領主に土地の使用料として、金を払い、跡地に150本/1畑に木を植える義務があったそうです。
産業造林の始まりはこんなものだったのかも知れません。
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箸の供養は金比羅山のお告げ?
箸蔵寺
弘法大師によって造られたお寺。金比羅山のお告げで、箸を使う人の救済目的?そんな理由で建立されたとか。
8月4日は、お箸の供養、箸供養が行われます。全国から料理人が集まるのだそうです。ちなみに、割り箸を使った後に折る風習。これは元々、柳の枝を利用した名残。柳には神様がつくということで、使っているうちに神様が宿ってしまうと信じたんです。
宿った神様が、後で他の人に悪さしないように折って、使えなくしたんです。そんな信仰から
ってことは、神を殺しているということなんでしょうか。割り箸を折るというのは・・・・・・?
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箸蔵寺
http://www.hashikura.or.jp/
箸蔵山ロープウェイ
http://www2.ocn.ne.jp/~ropeway/ |
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一本松
徳島藩は、一里塚に松の木を植えたのが、日本で最初だそうです。天下の5街道の一里塚はエノキ。
でも藩内の街道の一里塚は松ということ。慶長17年に決めたことだそうです。
徳島県内に残る一里松という地名は、その名残だそうです。
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傷痍軍人を慰めた歌
昔々その昔
椎の木林の すぐそばに小さなお山が
あったとさ あったとさ
丸々坊主の 禿山は
いつでもみんなの 笑いもの
これこれ杉の子 起きなさい
お日さまニコニコ 声かけた 声かけた
というこの歌は、傷ついた軍人やその家族、遺族に向けての歌だったんです。
そしてその歌の中には、大東亜戦争によって国土が荒廃していった話が詰まっているんです。作詞家の吉田テフ子(1920〜1973年)さんは宍喰町の出身。
少国民新聞の軍人強化運動期間というイベントで募集された少国民歌に募集したモノ。敗戦濃い昭和19年10月9日に神田共立講堂で発表されたんです。
その背景には、学校卒業後についた小学校訓導をやめて、宍喰町の実家の山林の維持・管理をしていたからだそうです。
一、
昔々の その昔 椎の木林の すぐそばに
小さなお山が あったとさ あったとさ
丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの 笑いもの
これこれ杉の子 起きなさい
お日さま にこにこ 声かけた 声かけた
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二、
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いぃ、むぅ、なぁ、八日 九日 十日たち
ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上
小さな杉の子 顔出して はいはいお日さま 今日は
これを眺めた 椎の木は
アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い
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三、
こんなちび助 何になる びっくり仰天 杉の子は
思わずお首を ひっこめた ひっこめた
ひっこめながらも 考えた なんの負けるか今に見ろ
大きくなって 国のため
お役に立ってみせまする みせまする
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四、
ラジオ体操 一二三 子どもは元気に伸びてゆく
昔々の禿山は 禿山は
今では立派な杉山だ 誉れの家の子のように
強く 大きく 逞ましく
椎の木見おろす大杉だ 大杉だ
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五、
大きな杉は何になる 兵隊さんを 運ぶ船
傷痍の勇士の寝るお家 寝るお家
本箱 お机 下駄 足駄 おいしいお弁当 食べる箸
鉛筆 筆入れ そのほかに
嬉しやまだまだ役に立つ 役に立つ
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六、
さあさ負けるな杉の木に 勇士の遺児なら なお強い
体を鍛え 頑張って 張って
今に立派な兵隊さん 忠義孝行ひとすじに
お日さま出る国 神の国
この日本を 守りましょう 守りましょう
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昭和20年2月からNHKで全国放送(ラジオです)。敗戦後、GHQの指示で放送禁止に、で歌詞(赤字部分)が変更されて今に至っています。
当時は、燃料としてスギの木よりシイノキの方が需要が高かったいうことと、木がだいぶ伐採されて、禿げ山が目立ったということなんでしょうかね。
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一、
昔々の その昔 椎の木林の すぐそばに
小さなお山が あったとさ あったとさ
丸々坊主の 禿山は いつでもみんなの 笑いもの
これこれ杉の子 起きなさい
お日さま にこにこ 声かけた 声かけた
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二、
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いぃ、むぅ、なぁ、八日 九日 十日たち
ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上
小さな杉の子 顔出して はいはいお日さま 今日は
これを眺めた 椎の木は
アッハハのアッハハと 大笑い 大笑い
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三、
こんなちび助 何になる びっくり仰天 杉の子は
思わずお首を ひっこめた ひっこめた
ひっこめながらも 考えた なんの負けるか今に見ろ
大きくなって 皆のため
お役に立ってみせまする みせまする
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四、
ラジオ体操ほがらかに 子どもは元気に伸びてゆく
昔々の禿山は 禿山は
今では立派な杉山だ 誰でも感心するような
強く 大きく 逞ましく
椎の木見おろす大杉だ 大杉だ
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五、
大きな杉は何になる お船の帆柱 はしご段
とんとん大工さん たてる家 たてる家
本箱 お机 下駄 足駄 おいしいお弁当 食べる箸
鉛筆 筆入れ そのほかに
楽しやまだまだ役に立つ 役に立つ
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六、
すくすく伸びよう 皆伸びよう
スポーツ忘れず頑張って頑張って
すべてに立派な人となり 正しい生活 ひとすじに
明るい楽しい このお国
わが日本を つくりましょうつくりましょう
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牛の出稼ぎ
阿讃交通の要所であった三頭越えでは、牛のバトンタッチが行われたんです。山がちで水田の少ない山村から、水田のある讃岐平野(香川県)へ、1ヶ月くらいのレンタルが行われていたんです。
もちろん、田植えや麦蒔きの時に牛さんを貸すんです。ということでカリコ牛といいます。
レンタル料は、現金ではなく、食料(麦や米)とか日用品だったそうです。
江戸時代から農業の機械化の普及まで続いた風習だったそうです。
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