ヤナギin宮崎
ヤナギにまつわる迷信(?)
◎戦争に行くときにシダレヤナギを植えると無事帰ってくる(西諸郡)
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海を支えた飫肥スギ
沖縄の漁船「サバニ」を代表に西日本の海で活躍したのが宮崎県南部に位置する飫肥地方のスギ。飫肥藩の伊藤氏は、小名(2万石以下で大名扱いではない)
大名扱いのためにありもしない国高を水増し(?)。しかし、大名になったのは良いが、出費も大変。疲労困憊した藩を救ったのが、この飫肥スギなんです。苗木は無料、植えるのは農民、販売後に、藩と農民が半分づつ山分け。紆余曲折があって、最終的には藩2割、農民8割という比率になったとか。(1説には1:2の割合だったとか)
藩としては人件費は掛からないということで、結構美味しいシステムだったのではないでしょうか。雨量が多く、温かいというと土地柄がスギの成長を早めたんです。スギは枝を挿すだけで根が付きます。挿し穂という方法で原野をスギにかえていきました。
成長が早いため、真っ直ぐではなく「弁甲材」と呼ばれる根元が太く、腐りにくく、細工しやすいということで船を造るのに重宝されました。
通常、1ヘクタールにスギを3,000から10,000本植えて通直にするのですが、ここでは1000本、人によっては、600本と疎に植えるのが特徴。瀬戸内海の海の漁船(もちろん木造船)はここからのものだったとか。また、シロアリに強いため、沖縄の家にも使われています。一時期、朝鮮半島や中国にも輸出されていたとか
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イノシシ捕ったら
西都市銀鏡(しろみ)ではイノシシを射止めると尻尾を山の神に報告します。ありがとうと
そして、イノシシの肉を仲間みんなで平等に分配します。そして12月16日に「ししば祭り」が行われます。銀鏡神楽の最後の行事(12日から16日まで)
銀鏡川の中州の岩場でイノシシの頭を火で炙り、左耳を七切れ串刺しにしてコウザキ(狩猟の神さま)にお供えするのです。
七切れは、7人で一つのチームを組むので。
昔は、心臓と肝臓を供えたそうです。
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山椒の木に鈴
日本で昔からある調味料の一つは山椒(Zanthoxylum piperitum)。平家落人村の椎葉では、そんな山椒の木に鈴をつけるんです。
そこにはこんな悲しい話があるんです。壇ノ浦で滅んだ平家。その末裔は落人して日本各地の山奥に逃げ、ひっそり暮らしたんです。しかし、残党狩りの命令が鎌倉から出るんです。あの那須与一宗高にです。でも病気の兄の代わりに実際に追討に出たのは弟の大八郎宗久(だいはち)。椎場に着いた大八は、急峻な山でしがみつくように生きようとする平家の落人にたいして命令違反。すなわち手を下さなかったのです。
理由は平清盛の末裔の鶴富姫に恋したからとも。
鶴富姫に会いたいと思った時に姫のいる家にある山椒の木に鈴をつけて、合図を送ったんだそうです。
何度、山椒の木に鈴を掛けたかは分かりませんが、平家の落人の人達にも認められ、そして子を得るんです。しかし、子が生まれる前に帰還命令が鎌倉から来るんです。
平家を姫を連れて帰るわけにもいかず、天国丸という刀を与えて、泣く泣く関東に戻ったんだそうです。
これを謡ったのが稗搗歌。焼畑で収穫した稗(日恵)を臼で搗く時の労作歌
稗搗節(ひえつき)
庭の山椒(さんしゅ)の木鳴る鈴かけて
ヨーオー ホイ
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれヨ
鈴の鳴るときゃ何と言うて出ましょ
ヨーオー ホイ
駒に水くりょと言うて出ましょヨ
おまや平家の公達ながれ
ヨーオー ホイ
おどま追討の那須の末ヨ
那須の大八、鶴富(つるとみ)捨てて
ヨーオー ホイ
椎葉立つときゃ目に涙ヨ
泣いて待つより野に出て見やれ
ヨーオー ホイ
野には野菊の花盛りヨ
ちなみに、山椒の木に鈴をつけるのは、南九州の風習だとかで、神が山椒の木に取り付くことを意味するそうです。
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ストリップダンサーの小道具
日本の神話といえば、古事記。
素戔嗚尊の悪さに参った天照大神は、岩戸に引きこもってしまった話は有名です。太陽である天照大神が出てくれなければ、農作物もダメ、何もかもダメ。だから、何とか表に出てもらいたいと八百万の神様が知恵を絞ったんです。けれども、怪力で強引に岩戸を開けようとしてもダメ、このままでは真っ暗闇の世に。
アメノウズメノミコト(天宇受賣命or天鈿女命)が取った行動がこの危機を回避するんです。
それは、ストリップだったのです。八百万の神様の前で、すっぽんぽんで踊ったのです。その手に持っていたのが、オガタマノキ(Michelia compressa)の木の枝。これで面白可笑しく、隠す場所を隠しながら踊ったのです。
酒が入っていたかは分かりませんが、集まった神様達は大盛り上がり。ヤンヤヤンヤの大騒ぎ。天照大神は、気になって、ちらっと見ようと天の岩戸をちょこっと開けたんです。で、力持ちの手力男命(タチカラオノミコト)がガバッと岩戸を開けて事なきを得たんです。
オガタマノキは招霊の木と漢字で書き、神前に供えると神を招くということから招霊(おがたま)とついた名前だそうです。神を招くというのは、天照大神を表に出したことに由来するんでしょうかね。
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江戸時代の山の区分
天領の場合
延岡藩で発生した百姓一揆(元禄5年:1692年)で日向市、西都市、宮崎市、清武町、国富町、日南市にまたがる地域。この天領は日田の西国郡代の支配の一部でした。富高に手代所が置かれて管轄。
@御林:幕府の所有で勝手に伐採を許さなかった。
A御牧山:幕府の牧場としての山林
B秣場:入会牧野
C百姓山林:入会山林
D百姓持山:個人有林
天領内では、住民に植林を強制することはなかったそうです。また天領内ではスギ、マツといった用材、木炭、シイタケ、薪、櫓木(ろぎ)は、細島や美々津から大阪に出荷。民有林は勝手に伐採しても問題なし。ついでに上納金も無し。
延岡藩の場合
@御林山:藩直営林で、願いが出れば一定の年限をつけて貸し出し。林産物には下草税と称して徴収。
A御留山:藩有の天然林。
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水防林in宮崎
@北川
五ヶ瀬川流域の一つの北川(延岡市の北に位置)では、慶長年間(1596〜1614年)に水防林を造成。河岸に接する土地を入会地に指定し、松を中心にエノキ、カシ類、イチイノキを植栽。そして、その中にタケを植えて、洪水時のクッションにしました。
幕藩時代は、樹木の伐採は御法度。死あるのみという厳しい管理がなされたそうです。
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