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果報団子と萩の木片
焼き畑とハシバミの木
山とは命の貯蔵庫、慣行特売という救済
焼畑と桐
17年で一回り
ウルシin岩手
炭in岩手
魚付き林in岩手


果報団子と萩の木片
旧暦の11月24日の弘法大師の誕生日に食べるおやつを果報団子といって、キビで作った団子。この中に、萩の木片を入れた団子をいくつか用意し、木片に当たるまで家族で食べたそうです。

萩の木片が当たったら幸せと言うことで、財布に入れるとお金が貯まるそうです。
子供は、習字が良くなるとか・・・・


焼畑とハシバミの木
大迫町の焼き畑は、5年たつと、休閑させるそうで、その時に、木を植えます。キリの木とハシバミの木を交互に植えて20年待ちます。20年たてば、たくさんの木が生えてきて、次の焼き畑に必要となる灰を生む色々な木が生えます。地力は回復し、そして次の焼き畑が出来ます。そして、キリの木は大きくなり、タンスに化けます。
ちょっとした現金収入になったんです。

しかし、ハシバミの木は、20年後に他の木と、一緒に焼かれて、大地の灰になるのですが、この木は根に根粒菌を持ち窒素固定を行うので、地力回復に必要だったんです。

そのせいか、「コバヤ榛」「コバ榛」(焼畑の榛という意味)と特別に呼ばれていたそうです。
山の中の榛の巨木は、苗木の供給に必要なので絶対に切らなかったとか

今、発展途上国の疲弊した農村開発の中で、アグロフォレストリーといって、窒素固定をする木を植えたりすることで農地の地力を回復するの流行っています。結構環境NGOの人々が、この技術を使って貧困対策に貢献しています。そしてアグロフォレストリーで成功した話を自慢げにいっています。国際的な援助機関が行った成果を利用しているのが多いのですが、意外と、国内のこういった伝統的な技術を知らなかったりするんです。
また、海外のそういった技術を神格化する傾向があるように感じるのですが、もっと、国内の技術を知って欲しいモノです。


17年で一回り
三陸海岸の話
塩を作ることは、飢饉に備える意味でも重要。それ以上に、藩の財政にも重要。そういう意味もあって、塩作りが積極的に行われました。塩作りには、燃料なしには出来ません。ということで、燃料は薪イコール木。製塩所の周りに木が無くなると、移動。移動、移動に移動を続けると17年後に元の場に。

伐採後に木を植えたかどうかは資料不足でわかりませんが、たぶん赤松を植えたと思います。赤松は火力が強いので、製塩には欠かせません。



山とは命の貯蔵庫、慣行特売という救済
1993年の大凶作
米の自由化という安易な、しかも今までの経験を生かさなかったのは残念なことです。歴史にもしはないけれど、東北地方を何度も襲った飢饉。そんな中での森林の役割を書いてみます。

東北地方の国有林といえば、村の森だったのに地租改正で勝手に国のものにして、農民を排除した等、暗い話が多いのですが、ここでは横に置いておいて

昭和6年に起きた飢饉の際。農民から奪った(ちょっと言葉が悪い)山を解放したんです。

食べ物がない、売る娘がないとなり、もう金もない。そんな時に、国有林(御料林:天皇家の森林)を利用させたのです。薪炭材を無料に近い価格で伐って販売することを認めんです。その他、救荒作物でもあるワラビの根やクリなどの木の実も採集することが許されたとか。

慣行特売とは、市場の半分の値で地域住民に利用させるというもの、このときは、薪に炭にということで市場価格がつかず、コストを逆算すると赤字になるということで、本当にただ同然で渡したとか。


山とはどんなところかと思うと、やはり食べ物があるところではないでしょうか。飢饉、今の飽食の時代には想像できないけど、やはり何らかの対策を立てるべきではないでしょうか。広葉樹を植えることが流行っていますが食べられる木を植えるべきと思うのは私だけでしょうか


焼き畑と桐
岩手県下閉伊地方
南部桐の一つ
焼いてすぐにヤマハンノキを植えます。
農業は5年ほど続けますが、その後は放置。haあたり300から400本植え、20年後に伐採。

また、桐も一緒に植えるのです。そして、山から来る桐なので山桐と呼ぶそうです。


ウルシin岩手
秀衡塗り
盛岡市、水沢市、石巻市を中心に奥州藤原氏の
流れのある漆器とのこと
起源は12世紀といわれており、源氏雲に菱金箔を
貼り、空間に植物を配しているんです。
これが、秀衡文様と呼ばれ素朴ながら華麗が
売り文句です。

浄法寺塗 or 安比塗り
盛岡市を中心に本朱や黒といった無地、単色を
基本とした漆器
8世紀前半、浄法寺山の天台宗奥州本山、
天台寺のお坊さんによって作られたのが
はじまりと言われています。


炭in岩手



魚付き林in岩手
江戸時代から明治の始めまで、至る所で植林が行われていたようです。一部では終戦直後まで

しかし、高度経済成長の昭和30年からは漁師にも見向きもされなかったとか。戦後の教育で昔の良きものまで捨ててしまったんでしょうかね。バブル崩壊後、漁民が山に木を植えるようになっていますが、それ以前は、身近な海に面した所の森を守っていたんです。港の近くにこんもりとした緑があれば、それが魚付き林です。

宮古の話
1736年(元文10年)に出たお達し
「山奉行が申すには、海辺の森林は漁のためになるから大切にするように、この事を、給人、与力、刀差、船頭、水主(漁師)と惣百姓にあらかじめ心得るように、十分に言い渡さなければならない」江戸時代の分かる人には分かっていたんですね。なんで、平成の今になってそのことを再現しなければならないんでしょうか。漁師が山に木を植える。昔の人が出来たことを今、改めて各方面で取り上げられますが、恥ずかしいことですよね。
それまで何を漁師はしていたのかと


ここで、またしてもひねくれ者は書いてしまうのです。
多分、反発を買うであろうと予測はしていますが

魚付き林を植えるべきとか、保護しようとかいう声が挙がってきます。それは結構なことと思いますが、必ずと言っていいほど、広葉樹を植えようという声が出てきます。
また見かけます。

しかし、昔の文献を見ると、マツであったりスギであったりと広葉樹を積極的に植えた話はありません。まず、根がすぐ付くことを優先すれば針葉樹だと思います。
針葉樹の森を作っても、ある程度間伐をすれば広葉樹が侵入し、豊かな植生になります。広葉樹信仰はもうやめて欲しいです。まあ、救荒用に食べられる木を植えるのであれば大賛成ですが

また、もっと手厳しいことを書きますが磯焼けという問題があります。やり玉に挙がるのは林野庁の奥地林の伐採が原因。伐るのをやめると魚が戻ったかのような話があります。現場を見ていないので本当のところは分かりませんが、昭和20〜60年代にかけて、多くの漁師が森に関心を示さなくなったことが一番の要因と思います。

なぜなら、植林面積の資料がないのです。明治、大正、戦前一生懸命植えていたようです。
何が漁師を森から遠ざけたんでしょうかね


まめぶ
干しシイタケではなく、干し占地(ほししめじ)
香松茸、味占地、そのシメジをさらに美味しく食べる方法が

シメジを干して乾燥させます。その乾燥シメジこと、干しシメジを一日かけて戻します。戻し汁が出しになります。

そして、庭にあるクルミの木になるクルミの実を

まめぶの由来は、豆粒大の大きさに作るからとか、鞠生(まりふ)に似ているから、それが訛って「まめぶ」になったとか、晴れの食べ物で、忠実(まめ)になって欲しいという願いからとも