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津軽信政と野呂理左衛門、松橋半次郎
鰺ヶ沢より十三湊に至る七里長浜の砂防造林を作った藩主と家来です。天和2年(1682年)に、岩木川の扇状地を開拓した際、日本海側からの強風で、砂が舞い、土が舞うのを防ぐため、開拓地、木造新田を屏風のように囲むように植林しました。
1本ごとに砂地に穴を掘り、粘土を運んで根付きが良いようにし、カヤとか藁で、風を塞ぎ、血のにじむ思いで松林を作りました。
その結果、幅4キロ、長さ10キロに及ぶ約70万本の鬱蒼とした森を作りあげたのです。
ただ、悲しいかな、天明3年(1783年)に東北地方を襲った天明の大飢饉の時、救荒植物ということで津軽藩の命を救うため、木を切り、食糧を買うため、売ったり、樹皮を食べたりして飢饉をしのぎました。飢饉が去った後、たった3万本しか残っていなかったとか
さらに100年かけてもとの松林に戻したそうです。
最近(2001年5月)聞いた話ですが、先人の努力を知らない人たちが、また松林を切って農地開発しようとしているとか、なんのための松林なのか、誰のための松林なのか、こういう馬鹿な話を聞くと、人間はやっぱり馬鹿なのかなと思いますが、わずかな収量の増加のために、先人の血のにじむような努力をポイと捨てる。どう思われます?
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KIZUKURI(木造町商工会)
http://www2.ocn.ne.jp/~kizukuri/
中里町立博物館
http://www.infoaomori.ne.jp/nakasato/
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星 弘道、楠美荘司
津軽のコウゾの植林を始めた人。
もともとは、水戸出身の医者で、今泉(今の中里町)にて医業を行っていたが、気付くと楮の植林をしていた人です。
津軽藩主の産業の振興の一環として和紙の生産がありました。安政6年(1859年)に、楮仕立てに命じられた楠美荘司は、星弘道に教えを請いながら、植林を行い、その後藩内全域に植林をし、津軽の和紙に貢献しました。
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三浦荘七
三戸町五戸村の人
不毛の大地に21万本のマツを植え、森林を作った人。
1862年(文久2年)頃に活躍した人らしい。
この他、木曽ヒノキを植林にもチャレンジする。
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三戸町のホームページ
http://www.town.sannohe.aomori.jp/
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野呂喜代吉
深浦町出身の明治時代の水産教育の権威
1873年生まれ、1954年没
深浦水産補習学校長時代に書いた「水産教科書」。この本の内容がすばらしく全国の水産を勉強する学生の教科書に1921年採用されるほど
深浦の魚付き林を作った(計画)した人
明治末期に小学生を動員してマツの植林
自学自習水産教科書の中に次のような記述があるそうです。
「森林は一見漁業上何等の関係も無いようであるが、間接には非常な関係を有するものである。およそ樹木はどんな種類でも、降雨の際には その枝葉に大量の雨滴を支えて雨量の全部を放出するのではなく、一部は地中に送って根に吸収し、河川の源泉を養うものである。」
この深浦の魚付き林
この下の荒磯ではホッケやヤリイカの釣りの名所とか
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深浦町のホームページ
http://www.town.fukaura.aomori.jp/
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