森のただ乗り(漁業編)
ぜひ、多くの人から意見を聞いてみたいです。魚付林(杜(森)の話)にも書いたのですが、どうして戦後からバブル崩壊まで漁民が森に関心を示さなかったのか。

江戸時代、明治、大正、昭和初期に行われていた植林が戦後バッタと止まったのかを作者の思いつきで書いてみます。

漁業関係者の現場からの声を聞かせてください。
漁業に関する知識は小学校の時に習った程度の知識と仕事で知り合った人の面白可笑しい水産の世界しか知りませんので

漁業の質の転換
漁民が山から戦後関心を無くしたのは、漁業の質が変わったからでは?それまでの漁場は、港近くの沿岸漁業。だから、陸地、森が見える範囲で仕事していたのではないでしょうか。

 島根県のコーナーで「山アテ法」という漁場の見つけ方。青森県のコーナーの「魚釣りと山」という漁期の見方多分、あちこちで似たようなことがあったと思います。
しかし、沿岸漁業から、近海漁業、遠洋漁業と行動範囲が広くなったので、山が目に映ることなく、レーダーや魚群探知機等々の機械のおかげで森から関心が失せたのでは?と思いますが。どうなんでしょうかね

 昭和40年頃から養殖の行き詰まりが指摘されています。この前、気仙沼の漁民の講演でそんなことがいわれていました。色々な学者の研究によって森と海の関係が明らかになり、昭和60年頃から徐々に植林が、森への関心の回帰が起きたんだと思います。
でも、なぜ、関心が無くなったのか

昔は・・・・
 今もそうなのかどうか分かりませんが、漁村は非常に資源管理にうるさかったとか。だから、結婚は近辺の漁村とは出来なかったとか。漁場の情報が漏れるのを防ぐためとかもちろん、江戸、明治の話です。だから、魚付き林の保護にも気を遣ったのでは。
資源保護を維持するために植林をしたのでは日々の管理方法については、資料不足ですが諸藩が木一つ首一つという感じできびしいお達しをしながら魚付き林を守ったのは、それなりのなんかがあると思うのです。

 また、場所によっては呼び名が違っていました。盛岡藩では魚陰林、仙台藩では、魚着林、山口藩では鯨漁場魚付林。このように、目的は同じなのに豊富な呼び名・単語があるのは、それだけ生活に密着していたと思います。

 明治維新後、体制が変わったことで森が荒れ、その後、漁民の陳情が全国各地で起こったといいます。一つには官有林を士族に渡して開墾させたとかで山が荒れたとか。1899年(明治42年)に、魚付き保安林として指定されたのですが、ほとんどが官有林。普通の民有林はあまり指定されなかったとか。重要性は認識されていたんですよね。

林学の授業で保安林の話は、基本的には水源涵養と治山が主だったような気がします。記憶が定かではないのですが・・・・・

ぜひ、情報を、またご意見を下さい。

森と神様